強く美しい物語に立ち会うよろこびを――上橋菜穂子『香君』を読んで湧き上がる想い
「青い光のような青香草の香り」――物語の第一章、最後の一文に触れたとき、胸を衝かれた。本作の主人公はアイシャ、たぐいまれな嗅覚を持ち、香りから様々な情報を読み取る能力を持つ。特に植物が発する香りは、アイシャには率直な声として聞こえる。その体感を他の人とは分かち合えない以上、アイシャは生涯を孤独に生きるよう宿命づけられている。だが彼女は、自分と弟を殺害しようとしている王位簒奪者ヂュークチが無味無臭の毒を盛られているとき、それを察知し、命を救った。たとえ敵でも気づいた以上は見殺しに出来なかったのだ。彼女は生まれながら備わる能力に恐れを抱きながらも、他者と関わる道を選ぶ。そう生まれついたことに意味はあるのか。力はどこからもたらされたのか。そして今、なんのためにここにいるのか――根源への旅は、けれど暗闇ではない。そう、彼女を導く香りは、ときに美しい光も帯びているから。体感を分かち合うことは出来ずとも、澄んだ心を持つひとたちと同じ願いを見つめることはできる。だから、どんな逆境に追い込まれようと、彼女は香りの声に耳を澄ませる。「香君」だからこそ切り開ける、光射す方へ歩き出すために。 【写真】この記事の写真を見る(5枚) 本作は、上橋菜穂子さんの『鹿の王 水底の橋』以来、三年ぶりの新たな物語だ。読者はどんなに待ち望んでいたことだろう。そして今、強く美しい物語に立ち会えた喜びに、広い碧空を見上げるような心地でいることだろう。 上橋さんは「守り人」シリーズ、『獣の奏者』など、重厚な物語世界を生み出してこられた世界屈指のファンタジー作家だ。言語学者であったトールキンが圧倒的な教養をもとに『ホビットの冒険』や『指輪物語』を書いたように、文化人類学者でもある上橋さんの物語世界は常に、細部まで緻密に構築されながらも、土と大気の匂いがする。ページをめくれば広大な大陸や海があり、人々の暮らしが息づいている。急峻な山や渓谷、大河や沃野など、それぞれの土地に根差す民は、風土に応じた文化や信仰を生み出し、国家を築き、歴史を刻んでいる。その根底には、古代からのたゆまぬ時の流れがあり、神話が世界の成り立ちをひそやかに伝える。さらに登場人物たちは、辺境に住まう少数民族から、国家の統治者まで、性別も貴賤も多岐に渡る。各々が己の視座から世界を見渡し、心を動かし、意志を持って躍動していくことで、壮大なスケールの物語があざやかに織り上げられていくのだ。