国立公文書館に「開聞丸」の資料 与論発後の沈没状況や名簿
菊池さんは「開聞丸の沈没は富山丸や対馬丸ほど知られていないので、多くの人がこのような戦争の悲劇があったことを知るきっかけになればと思う。開聞丸の資料は、戦後おそらく遺族側から何らかの動きがあり、それを受けて作られたのではないか」と話している。 徳之島の陸軍飛行場は、天城町浅間の徳之島空港東側に南北の滑走路、隣接する岡前に掩体壕(軍用機の格納庫)などを整備するもの。1943(昭和18)年11月に着工し、翌年3月には長さ1500メートル、幅60メートルの滑走路が完成。3カ月後から飛行機の離着陸が始まった。45年3月下旬からは攻撃の前線基地を担い、沖縄特攻の第一陣として11機が出撃した。「天城町誌」は飛行場建設に当たり軍から「亀津町450人、伊仙村600人、東天城村430人、天城村800人の計2280人の作業員を出すよう命じられ、昭和19年1月からは沖永良部、与論両島より300余名の労務者が応援に来た」と記す。
奄美の南海日日新聞