【江戸の人気観光スポット案内】現代も「花見」場として盛る将軍がつくった桜の名所・飛鳥山
先週から今週にかけて、全国で桜が咲き乱れ、「花見」をする人たちで大混雑! コロナも空けて、今年からかつてのイベントも復活している場所も多い。その花見の名所のひとつ・東京の王子にある飛鳥山(あすかやま)公園もおおにぎわい。ここは江戸時代からの花見の名所だったらしい。あの木々たちはいつ植えられ、どう花見の名所として発展したのだろうか? 皆さん落語はお好きだろうか? 口演できる時期が限られるためあまり知られていないが「花見の仇討ち」という演目がある。最近では上野に変更して口演する落語家もいるが、この話の舞台が飛鳥山なのだ。なぜ、飛鳥山なのかというと、江戸時代、ここが花見の名所として一番の人気を誇っていたからなのだ。えっ、上野では?と思われる人もいるかもしれない。確かに現在の上野恩賜公園も桜の名所として有名だった。しかし、江戸時代、ここは徳川家の廟所がある寛永寺の寺域内だったので、夜間の入山や歌舞、音曲の禁止等様々な規制があった。つまり、上野は昼間品よく花を愛でる場所だったのである。 飛鳥山が花見の名所となったのは、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が、享保5年(1720)と翌年に、計1270本の桜を植え、元文2年(1737)3月11日に花見を行ってから。なんでもこの時は、お供の旗本らが仮装して歌い踊るなど、乱痴気騒ぎだったらしい。こうすることで、ここが、上野と違い歌舞、音曲もおとがめなし、仮装もOKで、歌ったり、踊ったりできる場所であることをアピールしたのだ。 手前の男性が演奏する三味線に合わせて、中央の男性2人が踊りを披露しているところだろうか。それとも芝居の名シーンを再現しているところだろうか。 吉宗は鷹狩りが大好きで、その際に訪れることが多かった隅田川堤、品川の御殿山、中野、飛鳥山に花を植えたのだ。このうち、中野は桜ではなく桃の花だった。この中の飛鳥山で吉宗が花見をしたのは、紀州飛鳥明神を勧進したことが飛鳥山の名前の由来になっていたことによるらしい。紀州出身の吉宗は、紀州に関係する地名のこの地に特別な思い入れがあったようだ。 飛鳥山は、江戸の中心部から2里というから約8キロメートル。歩いて片道2~3時間くらいの距離なので、主な移動手段が徒歩であった当時ならば女性でも日帰りできた。 今は花見というと、ただ飲むだけというイメージが強い。何かするといってもカラオケで自慢?の喉を披露する程度だろう。しかし、江戸時代は、興が乗ってきたら小唄(こうた)や端唄(はうた)のひとつも歌ったり、ちょっと踊ったりすることは、少し生活にゆとりのある人ならばできて当たり前だった。また、このころ町人の間では娘を武家屋敷に奉公にあげることがステータスとなっていた。武家屋敷で奉公するには、三味線や箏、踊りなどができなくてはならない。そのため、町には三味線や踊りを教える師匠がいたのである。 こうした師匠はたいてい女性だった。その師匠と個人的にお近づきになりたいと熱心に通う男性もいた。師匠の方も、そうした男性の下心を理解していたから結婚していても、しているとはいわなかったらしい。 こうした小唄や端唄、踊りの師匠が、おそろいの着物に身を包み、手にはやはりおそろいの傘を持った自分の弟子たちを連れて飛鳥山にやってくる。今ならば公民館などを借りておさらいの会でも開くのだろうが、当時はそのような施設がなかったので、こうした場で、日ごろの稽古の成果を披露したという。 披露されるのは、唄や踊りだけではない。落語の花見の仇討ちでは、飛鳥山で仇討ちのため諸国を旅している兄弟とその親の仇が鉢合わせするが、最後は仲裁に入った人を交えて宴会をする。という寸劇を、仲間たちでやろうということになる。ところが、いざ始めてみると本当の仇討ちと勘違いされてしまい、居合わせた武士に助太刀を申し出られたが「うその仇討ちです」と言い出せなくなってしまう。落語なんだから作り話なんだろうと思うかもしれないが、あながちそうだとは言えないのだ。実は花見の趣向として現在のコントのようなことが行われていたのである。 例えば、天保11年(1840)、花見の最中に産気づいた人がいて、大騒ぎとなった。そこに運よく駆けつけた医者が手持ちの薬箱を開くと、なんと刺身をはじめとする御馳走が現れ、さらに産気づいた妊婦は三升の酒樽を産み落とした。この趣向は評判を呼んだという。 嘉永6年(1853)には、某旗本がこうした芝居に夢中になっている間に奥方と供の侍が手に手をとって駆け落ちしてしまう事件が起こっている。 ただ単純に花を見て酒を飲むだけではなく、美しい歌や楽しい踊り、さらには思いもかけなかった出来事と出くわすかもしれない場所として飛鳥山は人々に人気の花見スポットだったのである。
加唐 亜紀