FA移籍も数年で「トレード放出」や「戦力外」 権利行使も新天地で“立場を失った”男たち
86年から長く近鉄のホットコーナーを守りつづけてきた金村は、93年以降、出場機会が減り、首脳陣は若手の中村紀洋への切り替えを図りはじめた。 自著「在日魂」(講談社)によれば、94年9月頃のある試合で、金村は7回途中で中村に交代した直後、梨田昌孝コーチから「はい、ご苦労さん。もう帰ってええわ」と言われたという。 その後も同様のケースが何度かあり、「どう考えてもチームが自分を必要としていない」と確信した金村は、翌年中日監督復帰が内定していた星野仙一氏の誘いに応じ、中日へのFA移籍を決めた。 ところが同年、中日が巨人とシーズン最終戦まで優勝を争ったことから、高木守道監督の続投が決まり、金村は微妙な立場になった。 さらに翌95年、阪神大震災で家族が被災し、「家族のためにも、もっと頑張らなあかん」と張り切ったことが裏目に出て、左手首、右足、右肩を相次いで痛めてしまう。同年は出場28試合に終わり、年俸も40パーセントダウン。星野監督が復帰した96年もコールズに出番を奪われ、年俸はFA移籍時の半分以下の推定2500万円にまで下がった。 だが、FA選手にしては安い年俸が幸いし、97年の開幕直後、右打者を欲しがっていた西武とのトレードが成立。移籍後の初打席で本塁打を放ち、復活の狼煙を上げた金村は、出場73試合で打率.306をマークし、リーグVに貢献した。 残留を望んでいたのに、心ならずもFA移籍することになったのが、阪神・仲田幸司だ。 92年に14勝1セーブを挙げ、エースとして6年ぶりのAクラス(巨人と同率2位)入りに貢献した左腕も、翌93年以降は思うような成績を挙げられず、チームも4位、4位、6位と低迷した。 そして、登板9試合、0勝2敗、防御率9.56に終わった95年オフ、FA権を取得した仲田が契約更改の席で「僕がFA宣言したらどうなりますか?」と尋ねると、球団代表は「どこも獲ってくれない」と答えた。「君のFA権なんて紙切れみたいなもんや」とも言われたという。