【政財界にも太いパイプ】ジャニーズ王国を築いた「隠れた父」と「SMAP」の知られざる因縁
三島と「ジャニーズの父」の関係
三島由紀夫は大正14年(1925年)1月に生まれた。満年齢が昭和の年号と一致している。 【画像】SMAP解散の遠因にも…「ジャニーズの知られざる父」衝撃の素顔写真…! 昭和20年、20歳で終戦を迎え、昭和30年、30歳でボディビルを始め、昭和40年、40歳でライフワーク『豊饒の海』の執筆を開始した。そうして昭和45年、45歳にして割腹自殺を遂げたのだ。 来年は三島由紀夫の生誕100周年である。存命なら100歳。つまり「昭和100年」というわけだ。 そんな三島とジャニーズ(事務所)とは、思わぬ関わりがある。その接点とは、ある一人の男だ。 創業者・ジャニー喜多川の義兄であり、メリー喜多川の夫、すなわち藤島ジュリー景子の父親である。私は彼を<ジャニーズの隠れた「父」>と呼んだ。 そう、藤島泰輔その人だ。 藤島は昭和8年生まれ、三島より8歳下である。二人は共に初等科から学習院に学んだ先輩後輩だ(三島は東京帝国大学へ)。藤島が高校3年生の時、27歳の三島と初対面した。学習院の交友会雑誌の座談会だったという。 それ以来のつき合いだ。 藤島が23歳の時、出版した小説『孤獨の人』に三島は序文を寄せている。 <蛇腹のついた制服、筋目のとおったズボン、光った靴、気取り屋で皮肉で美貌、これが学習院の光輝ある伝統なのである。(略)。藤島氏は外見、言語、動作、すべて古き学習院の型に属していて、われわれ先輩を安心させる> この序文で三島は同小説を<巧すぎるくらい巧い>と称賛している。皇太子(後の平成天皇)の御学友だった藤島のある種の暴露小説として話題になり、ベストセラーとなって、映画化もされた。その後、藤島は作家の後輩として三島と親交を持った。 ◆皇室への「まさかの距離感」 『天皇 青年 死』と題する藤島の著書がある。副題は<三島由紀夫をめぐって>、1973年4月刊。「諸君!」1971年2月号に掲載の三島を追悼する文章が収録されている。 作家デビューした藤島が挨拶に行くと、「その洋服はいかんな」と三島に言われた。銀座の高級テーラーに連れて行かれ、洋服の布地まで選んでくれたという。 さらには、こんなくだりもあった。 <三島はしきりに皇室、特に皇太子のことを私に質問した。「機会があったら、きみと一緒に東宮御所へ行こう。俺は皇太子にいいたいことがあるのだ」と氏は厳しい表情でいった> 後の皇太子妃となる若き正田美智子さんと、実は三島は非公式のお見合いをしていた――という秘話もある。 今上天皇が浩宮時代の学習院の初等科で、三島の長女がクラスメートだった。三島が「天皇陛下万歳!」と叫んで割腹自殺を遂げた日、長女は学校を早退したという(同じくクラスメートだった故・野村万之丞<五世>の発言に拠る。映画『みやび 三島由紀夫』において)。 浩宮殿下は、どう思われたことだろう? さて、先の藤島の著書『天皇 青年 死』には<皇太子殿下に捧げる手紙>と題する章があった。 <早いもので、私たちが学習院大学を卒業してから十五年余りの歳月が流れました。(略)殿下は御記憶でしょうか?> こんな調子で、皇太子への手紙の形式で書かれたエッセイなのだ。しかし、これが女性週刊誌「微笑」に掲載されていたと知って、唖然とする。 皇族とのつながりを売り物にする軽薄さ、通俗性、デビュー時の小説『孤獨の人』以来、ずっとそうなのだ。学習院卒として恥ずかしくないのだろうか? ◆「虚飾」のイメージが色濃く残り 三島が言うように藤島泰輔は顔も見かけも上品で、育ちがよく見える。文章もやたらとうまい。主張は保守的でタカ派、日本の行く末を憂いている。それでいて女性週刊誌に皇族との御学友ぶりを売り物とする軽薄な文章を書く。高貴で典雅な外見に反して、なんとも下世話で通俗的で恥知らずな印象なのだ。 藤島は膨大な著作を書き、売れっ子作家となった。長者番付の常連である。馬を何頭も所有する馬主で「ヒカルゲンジ」という名の馬もいた!? 娘の幼少期には、アメリカで一緒に暮らしている。その娘・景子は、父と顔がとてもよく似ているのだ。 藤島は文才を有し、若くしてベストセラーを書いた。政界にも乗り出した。文豪・高浜虚子の孫娘と結婚し、皇族との御学友ぶりをひけらかした。一貫してブランド志向だ。富は築いたが、しかし文学賞は一つも取れず、選挙にも落選している。“虚飾”の一語がふさわしい。 きわめつけは「ポール・ボネ」名義で20数冊に及ぶ『不思議の国ニッポン』シリーズの著作である。在日フランス人ジャーナリストを自称して、いわばインチキ外国人として日本人を見下ろし、諭している。国辱的なふるまいである。 そんな藤島がメリー喜多川と再婚して、ジャニーズの「隠れた父」となったことの意味は大きい。ジャニーのプロデュースと、メリーのマネージメント、そうしてその背後で「隠れた父」たる藤島の金銭と政財界人脈の支援によって、“虚飾”の芸能王国は完成したのだ。 「週刊文春」元編集長で、ジャニー喜多川の性加害スキャンダル報道記事の担当デスクだった木俣正剛が興味深い発言をしている。 先の記事はジャニーズ側に訴えられ、民事裁判でジャニーによる少年たちへの性加害の真実相当性が認定された(2004年結審)。 木俣はジャニーズサイドと何度か会談を持つ。そうして2015年の「週刊文春」のメリー喜多川のインタビューへと至った。メリーは文春の記者に対して錯乱したように怒りまくり、その場にSMAPのマネージャー・飯島三智を呼びつけた。 ◆SMAPとの「因縁」 「あんた、文春さんがはっきり聞いているんだから、対立するならSMAPを連れていっても今日から出て行ってもらう」 飯島にそう言い放った。結果的に、この記事が原因でSMAPは解散することになったのだ。 同記事が出た直後、メリーは編集部へ乗り込んできて、文春の記事を痛罵したという。 <さらにそれ以前の文春との関係(メリー氏の夫の作家・藤島泰輔との関わりなど)を話すなど、五時間ほど会話して帰っていきました> (「PRESIDENT Online」2023年11月6日) これは重要な証言だ。藤島泰輔は「文藝春秋」やタカ派雑誌「諸君!」の常連寄稿者で、いわば文春文化人だった。文春上層部との親交も深かったという。 「週刊文春」のジャニー性加害告発キャンペーンは、1999年である。そして藤島泰輔はその2年前、1997年6月に亡くなっている(享年64)。ああ、と思わずため息をついた。 もし藤島が存命だったら、文春の上層部に訴えて「週刊文春」のジャニー性加害記事の差し止めに動いたことは確実だろう。メリー喜多川が文春の記者に対して藤島泰輔の名前を出して強弁したという証言は、それを充分に裏づける(「隠れた父」藤島は、メリーの中でまだ生きていたのだ)。 もし、藤島泰輔がもう少し長生きしていれば……。文春とジャニーズとの関係は変化していた。メリー喜多川による飯島三智批判のインタビューもなかったのではないか? すると、どうだろう。そう、SMAPは解散しなかった! 今もまだ活動を続けて、新しい歌を唄っていたかもしれない。 取材・文:中森明夫
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