ヤクルト球団のプロ野球労組復帰に奮闘したエース・尾花高夫は今? 保護司として草の根の人権広報活動に励んだことも
プロ野球界に労組をつくった男たち#8
球団による“搾取”から脱却し、選手たちの権利を獲得するため、1984年に設立されたプロ野球選手会労組。だが、1986年の開幕直前にヤクルト選手会が突然、労組からの脱退してしまう。その後、球団の労組復帰に奮闘したのがエース・尾花高夫だった。当時の苦労と、知られざる現在の尾花の活動にスポットをあてる。 【写真】セ・リーグで3年連続最多敗戦投手だったヤクルトのエース
中畑の要請を受ける以前より、ヤクルトの労組復帰を考えていた尾花がとった行動は、まず、選手全員の意見を聞くというものだった。 「あのときの選手会三役は僕と(小川)淳司と高野(光)、そして会計が広澤(克己)でしたかね。ただあまり他の選手を巻き込みたくなかったので、この件で動くのは自分だけでやろうと思っていました」 行動は速かった。尾花は一軍、二軍すべての選手を集めて、選手会労組への復帰を望むか?という問いを立てて訊いた。3人の選手だけが回答を保留して他は全員が、戻りたいという声を上げた。 「3人は新人と二年目の選手で要は『よく分からない』というものだったんです。それで 組合に入るとどういうことになるのか、説明をしたら、『そういうことなら、どっちでもいいです』という返事だったんで、じゃあ、もう総意として、労組に復帰に向けてやってみようと決意しました。 あれが、半数でも『いや、戻りたくないよ』という回答だったら労組脱退のままだったと思いますね」 1年待って下さいという中畑への回答はこの総意を確認してからのものだった。そこからの動きは選手会3役にも伝えない極秘裏の単独行動となった。 尾花は会社のフロント幹部と親しい外部の人物から情報をとることにした。復帰する上では何がネックであるのか、虚心坦懐に訊き、会社の意志を探った。 会社の上は何を考えているのか。もうほとんどとりつくしまは無いのか。それともまだ望みはあるのか。あるならば、それはどう動けば広がるのか。 復帰に向けて画策しているという事が会社に漏れれば、その段階で潰されてしまう。意見と情報をくれる人間は絶対に信頼できる人間でなくてはならなかった。 「とにかくフロントの考え方を知るっていうのはとても大事なことだったのでそこに力を注いだんですが、会社の人は、どんなにいい人でも最後は組織の方になびくじゃないですか。 寝返りを打たれて全部筒抜けになってしまうと一発アウトですから、情報を集めるための人選は外部からしっかりと考えましたね。 日頃の人との付き合い方を見て、“この人は人の悪口を言わないから信頼できる”などと判断したんですが、その人と会っている所をフロントの人に見られないようにしないといけないし、ものすごく慎重にやっていました」 携帯電話もない時代である。不便ではあったが、安全な場所や時間を設定して、これはと信じた選手の立場に理解が深い人物とコミュニケーションを取った。