「臓器提供」を「無償の奉仕の心」に訴えるのはなぜ…対価を要求しないと逆に世の中が悪くなるという「残酷な真実」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】「無償の奉仕の心」が世の中を悪くしていると言える「残酷な真実」 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
奉仕の心には対価を
原則的に、人が他人のためにサービスを提供する場合には、それに見合った対価を得なければならないと思う。今日何らかの仕事をしている人々にとっては、それは当然のことだろう。 自分の時間、能力、体力などを提供させられているのに無報酬となれば、それは奴隷労働に等しい。無償のサービスはせいぜいハンバーガーショップの「スマイル」程度にすべきである(いや「スマイル」にも対価をつけるべきだという異論は認める)。 だから、自分の意思で自分の血液や臓器を提供するという、まさに身を削っての究極のサービスをする人に対して「無償で」ということは最もあってはならないことである。 「無償の奉仕の心」という言い回しこそ、奴隷労働やサービス残業、ブラック職場の実態を覆い隠してきたものである。臓器売買を禁じている国々もまた、「奉仕の心」という情に訴えつつ、脳死体をあたかも臓器の詰め合わせのごとくに扱っているのではないだろうか。 自分の臓器を提供する人に対しては、そのサービスに見合った対価を与えるべきである、というのが私の考えである。 とはいえ、生前に臓器提供の意思を示した人が、脳死状態になって臓器を摘出された後にその対価を受けてもしょうがない。 対価を遺族に渡す、あるいは相続させる、ということも、提供者本人に対する直接の支払いにならないから適切でない。臓器提供の意思を示した人に対して、生前に対価を支払うべきである。 生存しながら腎臓など臓器を提供した人には直ちに対価を支払う。脳死後でなければ提供できない臓器については、提供意思表示者本人が生きているうちに対価を支払うのである。 但しそれは臓器売買契約に基づく前払いであるから、対価を受けた者は生きているうちはそれに対応した義務を負う。 それは自らの臓器を健康に保つ義務である。