【デーブ大久保コラム】東京に本拠地があったころの日本ハムが野武士軍団でした
今では北海道に本拠地がありながらも「シティーボーイ」という感じが私の中にはあります。日本ハムが球団創設50周年を迎えたそうですね。私の中で日本ハムの最初のイメージは、多摩川のグラウンドです。 【選手データ】田中幸雄 プロフィール・通算成績 現在は多摩川丸子橋硬式野球場という名称らしいですが、そこを二軍戦で使用していました。東急東横線が外野後方に走っています。特急でいえば自由が丘駅と武蔵小杉駅の間に多摩川を渡るのですが、そのすぐ西側に見える野球場です。 当時は二軍の公式戦でも、その東横線の電車が多摩川の陸橋を通るときには、試合が一時中止になるんです。東横線は銀色の車両のため、ボールが重なり見にくいという理由です。チャンスのときに打席に立っても「タイム!」というのがありました。集中力が途切れるということも経験しました。それが一番の思い出ですね。 二番目は、プロ初ヒット。これは二軍戦です。西武第2球場で、マウンドには三沢淳さん。打席に立ったときに「巨人戦に投げていたあの三沢さんだあ!」という感動があったからです。三沢さんは、中日のエースとして活躍された方でしたから、小さいころによくテレビ中継を見ていたので打席で「オレもプロになったんだ」という思いもありました。そして何より、人生初のアンダースローの投手との対戦。軌道が体験したことがないものでしたが、なぜかバットを振ったら、二塁打になったという思い出があります。 日本ハムのチームとしての印象は野武士軍団。一度、新人のときに死球となったときに、ムッとしたので態度に出したんです。そうしたらベンチから「●△×◆■●△×◆■!」という言葉を次々と浴びせられるんです。もうすごかったのですが、何か一人ひとりが独立して、戦闘態勢というか試合に入り込んでいくというイメージです。その当時はまだ、東映フライヤーズの時代の野武士軍団の名残があったのだと思います。近鉄も猛牛というイメージですが、こちらは束になって向かってくるイメージだったので、日本ハムとは少し違いましたね。 選手としては、年齢が一つ下の田中幸雄の印象があります。打者のほうですよ。寡黙な感じでしたが、背が高くて二の腕がめちゃくちゃ太かったんです。それでいて右方向へ器用に打つ打撃は芸術品。「こういう打者が将来2000安打を打つんだろうな」と田中の1年目に思った記憶があります。 そんな野武士軍団の中で、明るく接していただいたのが島田誠さんでした。そしてもう一人、忘れていけないのは大沢啓二さん。私が入団して4年目くらいのときです。大沢さんは当時は球団の重役だったと思います。その多摩川グラウンドだったと記憶しています。二軍戦でくすぶっている私に声を掛けてくれました。「いいものを持っているから。戦力として見ているからそのうちな。頑張れよ」と。今だから言える話ですが、この言葉で「見てくれている人がいる」と勇気がわいた記憶が今でも鮮明に残っていますね。
週刊ベースボール