なぜ子どもは「できないことばかり」なのにかわいく見えるのか? 「子育ての美学」という試み
現代の日本において、「子育ては大変だ」という議論を目にする機会は多い。 たしかに子育ては大変である。その苦労が広く伝えられることは重要だろう。 【写真】わが子の「考える力」を奪う親たち、その意外過ぎる共通点 しかし一方で、子育ての大変さに注目が集まるあまり、その喜びや楽しさが十分に伝わらなくなってしまったとしたら、それは残念なことだ。 子育てにはどんな喜びがあるのか? 子育ての喜びを繊細に分析する「子育ての美学」というジャンルを研究する、大妻女子大学の森功次准教授の論考をお送りする。
子どもの「かわいさ」を考える
この記事はあえて「自分の子ども(8歳)に向けて語る」というスタイルで書かれている。なぜそんな書き方をするかというと、この記事のテーマが「子どものかわいさ」だからだ。 あらためまして、こんにちは。今日はきみにむけて、きみのかわいさについての話をしよう。 ぼくはふだん、大学で先生をしている。教えているのは哲学という学問で、特に美や芸術について考える授業をしている。きれいな絵やおもしろい音楽を楽しむとき、ぼくたちは何を味わっているのか。なぜそうしたものを大事にしているのか。こういったことを学生といっしょに考えるわけだ(大学ではこの学問は「美学」とか「感性学」などと呼ばれている)。 芸術だけでなく、生活の中のいろんな感動について考えるのも仕事のひとつだ。毎日の暮らしの中で、「すごい!」とか「きれい!」とか「おもしろい!」って思うでしょ。そこで評価されているのは何なのか。その感動はぼくらにとってどんな意味があるのか。きみはふだんこういうことはあまり考えないかもしれないけれど、これはマジメに考えるとけっこうおもしろい問題なんだ(最近ではこれは「日常生活の美学」という学問になっている)。 そんな仕事をしているぼくは、きみが生まれて以降、きみの「かわいさ」についてもいろいろと考えてきた。今きみは8歳だから、ぼくは研究者人生のそれなりの時間を、きみのかわいさについて考えるためにつかってきたことになる。この記事では、これまで考えてきたことの一部を紹介したい。 子どものかわいさについていろいろと考えた結果、このテーマについて書くにはきみに向けた「手紙」のようなスタイルで書くのが一番いいだろう、と考えるようになった。知らない人たちに家族のことをさらけ出すのはそんなに好きではないし、本音としてはあまりやりたくない。でも、子どものかわいさの中にはこのやり方でしか表現できない良さがあって、しかもそれがかわいさの大事な部分になっている、というのがぼくのたどりついた結論だ(あと、きみに向けて書くことで、言葉もいろいろとやわらかいものになるだろうから、そのぶん読みやすくなるとも思う)。 これからきみのかわいさについていろいろと話をしていくけど、ぼくは世の中の人たちに向けて「自分の子どもがどれだけかわいいか」を説明したいわけではない。むしろ世の中の人たちはきみのかわいさを真に味わうことはできない、というのがぼくが最終的に言いたいことだ。