ホンダの夢をアメリカに広げたシボレーのトラックを約60年前の写真から再現! 荷台のホンダ50とCB160もリアルに積載
藤澤武夫によるアメリカ進出がホンダを大きく育てた
ホンダが発展する大きな起因となったのは1958年に発売したスーパーカブのヒットであった。スーパーカブは発売から5ヶ月で2万4000台が売れ、発売2年目は年間約16万7000台、3年目の生産台数は約56万台となり、ホンダに大きな利益をもたらした。 藤澤氏はこのスーパーカブの大ヒットによって得た資金で、会社の資本金を2倍に増資、最新設備を整えた鈴鹿製作所の建設を決定し、万全の生産体制と品質管理体制を整える。そして、海外への進出を本格的に開始する。 まず最初に選んだのは、当時の自動車先進国であったアメリカであった。この難しい市場にあえて最初に挑戦しようという考えは、いかにもホンダらしいチャレンジスピリットに溢れたものであり、その根源は常に藤澤氏であった。 スーパーカブが発売された翌年の1959年(昭和34年)、ホンダが100%出資して現地法人アメリカ・ホンダ・モーターがロスアンジェルスに設立された。つまり、2024年はホンダのアメリカ進出からちょうど65年でに当たることになる。設立当時、アメリカ・ホンダ・モーターに日本のホンダから現地駐在したのは社長である川島喜八郎氏を含む2人だけで、他は現地採用のアメリカ人であった。
アメリカでの成功を導いた、ホンダ50の大ヒット
アメリカ・ホンダ・モーターは1959年9月に営業を開始し、ドリーム(250/350cc)とベンリイ(125cc)、ホンダ50(スーパーカブ C100)の3モデルがラインナップされた。しかし、その年の販売台数は約170台でしかなく、アメリカという市場の難しさを肌で感じることとなった。ハーレーやトライアンフといった大排気量車がアメリカのバイク市場の主役であり、小排気量の日本車は見向きもされなかったという。 しかし、その苦境の中で意外にもホンダ50だけが注目され、じりじりと売り上げを伸ばしていく。日本では実用車であったスーパカブだが、アメリカ人にとっては安くて手軽なトイバイクとして受け入れられ、ピックアップトラックやキャンピングカーに積んで運ばれ、現地での遊び道具や足として使われたのである。 アメリカ・ホンダ・モーターは二輪販売店だけでなく、釣具店やスポーツショップへと販路を広げ、ローン販売を設定したり雑誌や新聞に広告を出して攻勢に出た。1961年には月間販売台数が1000台を越え、翌1962年には年間4万台以上になり、1962年には2人乗りできるダブルシート仕様の輸出専用車CA100を発売した。 そして、1963年に“YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA=ホンダに乗ると素晴しい人びとに会える”と“THE NICEST THINGS HAPPEN ON A HONDA=ホンダに乗ると素晴しいことが起きる”のヘッドコピーで知られる 、「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」の宣伝広告を展開した。