文学の本質を凝縮した寓話小説、この作品を同時代で読めるとは何と幸いだろう―村上 春樹『街とその不確かな壁』橋爪 大三郎による書評
◆文学がつなぐ夢、40年の宿題解く 『街とその不確かな壁』は村上春樹氏の六年ぶりの新作長編。自身の半生と文学の本質を凝縮した寓話小説だ。 全体は三部構成。村上氏自身も、私/子易(こやす)さん/イエロー・サブマリンの少年、に三分割されている。主人公の私は、大学を出て勤めた書籍取次会社を四十代で辞め、福島県Z**町の図書館に再就職した。子易さんは前図書館長で地元の名士。イエロー・サブマリンのパーカーを着た少年は、その図書館に入り浸りだ。子易さんは若いころ小説家志望だったし、無類の図書館好きは往時の村上氏を思わせる。 本書は熟成度が高い。単体で十分楽しめる。ただあとがきにもあるが、第一部は一九八○年に発表した中編「街と、その不確かな壁」をリライトしたもの。第二部、第三部は書き下ろしだ。四〇年前の中編のどこがどう不満で改稿したのか。 第一部は、中編をほぼなぞるのだが、違いもある。中編では十代の僕が街を訪れ君と愛を交わす。第一部は、四十代の私が街を訪れ、君は図書館でお茶を淹れてくれるだけ。中編では最後に街を出ようと、私と影とは一緒に川に飛び込む。第一部は、影だけ飛び込み、私は街に残る。でもなぜか私はこの世界に戻ってきてしまう。 もっと大事な違い。中編は≪一秒ごとにことばは死んでいく≫みたいなとんがった命題から始まる。第一部はそれを残らずカット。言葉への問いを省いた。なぜだろうか。≪お客さん、列車が来ましたよ!≫の言葉は次の瞬間、死ぬと中編はいう。実用の言葉だからだろう。文学がその対極だとするなら、性急な観念論だ。そこが中編の短慮だったと悔いたのではないか。 本書の舞台は図書館、文学の拠点だ。Z**町の図書館には本がある。いっぽう街の図書館には本の代わりに、古い夢がある。中編には≪古い夢は…声をもぎとられたことば≫だとある。夢読みは古い夢を手に載せ、その声を聞く。図書館で本を読むのと同じことだ。ならばこの世界の図書館も、街の図書館に負けないほんもの。文学は生活に根ざしてよいのだよ。七十代の村上氏がかつての自分を諭すのだ。 こうして、不確かな壁に囲まれた街の性格が変わる。中編では、言葉が実用から切り離される究極の場所。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、この世界と並行する異世界。本書では、文学が紡ぎ出した古い夢の世界。≪きみがぼくにその街を教えてくれた≫が本書の一行目だ。そのきみが失踪した。きみは初めからいなかったか、ぼくの分身だったか。なら街は、自分が自分で紡いだ夢だということだ。 この世界と異世界を『世界の終り…』のように並行させると、誰かが両者を往還するところも描かなければならない。村上作品におなじみ、井戸やトンネルや…の神秘的な仕掛けだ。本書は、これを≪マジック・リアリズム≫と種明かしする。いっぽう本書は、神秘的な仕掛けが少なめだ。もうひとつの異世界をみせるより、それを紡ぎ出す文学のほうが大事だからだ。 文学の究極は、この世界の彼方の異世界ではない。文学の紡ぐ夢とこの世界とを、誰もが自由に往還し、豊かに生きることだ。その舞台が図書館である。本書はこのこと自体を小説のテーマにした。この試みが成功なら、四〇年来の宿題が解けたことになる。 Z**町の図書館は、子易さんが私財を投じて築いたもの。館長の職を継いだ私には図書館を守る義務と責任がある。文学は私的な行為だが、公共の活動でもあるのだ。それを妨げるものはみな壁である。 この作品を同時代で読めるとは何と幸いだろう。 [書き手] 橋爪 大三郎 社会学者。 1948年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。執筆活動を経て、1989年より東工大に勤務。現在、東京工業大学名誉教授。 著書に『仏教の言説戦略』(勁草書房)、『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『社会の不思議』(朝日出版社)など多数。近著に『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房)、『はじめての言語ゲーム』(講談社)がある。 [書籍情報]『街とその不確かな壁』 著者:村上 春樹 / 出版社:新潮社 / 発売日:2023年04月13日 / ISBN:4103534370 毎日新聞 2023年4月22日掲載
橋爪 大三郎
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