附属池田小事件被害者の母が「最後に68歩分歩いた娘」への慟哭を経て「日々の小さな悲しみへの寄り添い」に至るまで
悲しみを抱えた人にどう寄り添う?「その場で感じるものを大切にしています」
「ケアを行う人は、もっともケアを必要としている人である」という言葉が知られます。昨今よく聞く「ピアサポート」は対等な仲間同士がケアしケアされる関係性だと説明されますが、「そうした関係性が人と人との間で成り立つことを私も体験してきました」と本郷さんは語ります。 事実、本郷さんご自身も突如として娘さんを亡くし、その壮絶な悲嘆に身を置きながら、悲しみに飲み込まれないために必死でもがき苦しみ、人と人との関係性の中でいまに至っているのだそうです。過程では誰かを助けけることも、助けられることもありました。 「体験してわかったこともたくさんあります。たとえば、本当に大変な状況の渦中にある人は外に出られず、周囲にもそのことが知られない状態にあることが多いのです。私は緩和ケアの現場に呼んでいただいたり、家族がいない方のところにお伺いしたり、ご紹介をはじめとしたご縁でそのような方とつながっていきます。そばにいてほしい、ここにいてほしいと魂が叫ぶ方の元に、たまたま私の活動が届いているように感じています」 素朴な疑問ですが、グリーフケアとは特別な訓練を受けた、たとえば心理士のような専門職が行うものなのでしょうか。一例を挙げると、お父様を亡くされて悲しむ友人にどのような言葉をかけていいのか私たちも迷うことがありますが、こういうところに気を付けてお話をするといいんだよ、というような一定のメソッドがあるのでしょうか。 「ケアの姿というものは、あるようでないなというのが私の実感です。大事なことは人と人がどんなふうにお互いを思いあって支えあえるか。実際にその場でその方の悲しみに触れないと、事前に学習することはできないと私は考えています。実際に、自分が癒されたという体験があってはじめてわかることがあります。知識だけではどうしても成しえないものなのでしょうね。スタッフたちとは、いろいろな現場で起きていることを味わい、感じて体得していこうねと話しています。つねに学びであり、これが正解ということは決められないなと思っています」 本郷さんにとって、ご自身の活動は存在しなかったもの、必要なものを作っていく過程でした。附属池田小学校事件当時はPTSDに対するケアが中心で、悲嘆に対するケアがありませんでした。本郷さんたちは当事者として必要なケアに一つずつ気づき、学び、声をあげ、気づいて欲しいと社会に訴えて戦い、ときにその戦いに心折れ、また立ち上がりることを何度も繰り返しながら、「こうありたい姿」を積み上げてきました。その寄り添いとはどのような姿なのでしょうか。 「自分なりの『癒やされた』または『癒えた』と感じた瞬間の体験がないまま悲しみに立ち会うと、価値観の押し付けを行ったり、その人が望むあるべき姿に誘導してしまうことがあるんです。たとえば、『悲しいときは泣いたほうがいいので泣きましょう』と。でも、もしかしたらその方はあまりの悲嘆に泣けないことが苦しいのかもしれません」 これは確かに、私はそう言ってしまう気がする内容です。悲しいときは泣いていいんだよ、くらいのことを言った記憶もあります。 「また、『閉じこもっているとよくないから、外に出てケアを受けよう』と言うこともあるでしょう。でも、ケアの場所までとても自分の身を運べないという人もたくさんいます」 これもまた、私は過去にそう発言した記憶があります。そうですね、今思えば、そのとき彼女はケアの場所まで出かけることはとてもできなかっただろうと理解できます。申し訳なかった。 「悲しみの深さや質を言葉にすることができないこともあるでしょう。そのような場面では、その時の状態を感じながら、例えば紙をぐちゃくちゃに丸めてみることでその心を表現できるかもしれないな。クレヨンや色鉛筆をつかって色で表現することもできるのではないだろうか。など、考えが至り始めます」 理解できました、私があのときすべきだったことはそのように、彼女の横にただ寄り添い、彼女の心がどう動くか、そのほんの少し動く先を一緒に見つめることだったのですね。 「はい。これが、グリーフケアはメソッドの学習では成しえないところにあると感じる瞬間です。その人と同じ景色を眺めながら、ひたすら伴走するのです」
前編記事ではグリーフケアの実践に至るまでの本郷さんの背景を伺いました。後編では実際に現場でさまざまな悲しみに寄り添う中で新たに本郷さんが見つけていった救い、そしてより深い悲しみについて伺います。 [hidefeed] 後編▶『20年前に小2娘を殺された母が、刑務所で「彼らは加害者であると同時に被害者」と語る深すぎる理由』 [/hidefeed]
オトナサローネ編集部 井一美穂