加計「首相案件」よりも防衛省日報が問題……絶対平和主義の現実と文民統制
文民統制の根本
クローズアップされるのは、文民統制(シビリアン・コントロール)である。 今の自衛隊は、組織も予算も拡大し、行動も自由になる(アメリカの要請による範囲で)なかで、国民のあいだに、果たして文民統制はしっかりと確保されているのか、という疑問が起きるのは当然である。旧日本軍、特に関東軍の独走によって、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争と、泥沼に引きずり込まれたトラウマがあるからだ。文書管理をしっかりさせろという声が強くになるのもうなずける。 しかし筆者は、果たして書類管理の徹底で、文民統制ができるのだろうかという疑問をもっている。 むしろ逆に、詳細精密な管理システムでガンジガラメにすることが、常に微妙に揺れ動く現場の力学との乖離と齟齬を生み、やがて大きな問題を招くことになるのではないかという危惧を抱いている。 本来は、背広組も現場の力学を知るべきであり、制服組も一般国民に対するコミュニケーション力をもつべきであり、その相互理解の中で、作戦が立てられ、議論され、最終的には文民たる総理と国会の決断をまつのが、シビリアン・コントロールではないか。 戦前、文民統制が不可能だったのは天皇の統帥権の問題が大きい(司馬遼太郎はそう考えていた)。家族的な情緒同一性が、神がかり的な精神主義に陥りやすい国民でもあった。文化というものだ。 戦後、絶対平和のタテマエが続く中で、背広組にも制服組にも、非常時における対応能力と管理能力が育っていない。すべての政治、行政、教育、研究、報道が、戦争や戦闘を前提とすることなく、前提があったとしても米軍の指揮下で動く以外に選択肢がなかったからである。その意味で、現在の日本における文民統制の最大の問題点は、絶対平和主義と、米軍との関係にあるといわざるをえないのだ。
スペシャリストとジェネラリスト
筆者の友人は技術屋だらけである。高度成長期に「ものづくり技術」の現場すなわち工場なり工事所なり研究所なりではたらき、多少なりとも世界一の技術立国に貢献し、今は引退している者が多い。そうした連中との会話は、いかに企業の管理部門が現場を知らないか、今のマスコミが専門技術に関してマトハズレなことを伝えているか、という話題になりがちだ。 特に日本は、大学入試のときから、文系と理系にハッキリと分かれ、中国の科挙の制度の影響もあって旧帝国大学法学部や旧高等文官試験の力が残っている。江戸時代的にいえば、文系のエリートが士で、専門職は農工商といった感覚だ。ものづくりによる経済の復興と成長に頼った戦後は理系ブームが続いたが、いつのまにか元に戻ってしまった。 この溝を埋めるには、スペシャリストがジェネラルなスキルを、ジェネラリストがスペシャルな知識を養う必要がある。自衛隊の制服組と背広組のあいだにも、同じことがいえるのではないか。