『海のはじまり』は“選択”を肯定する物語だった 『くまとやまねこ』と重なる人生の旅
『海のはじまり』の重要な描写だった“食べる”こと
第12話は、「食べ物」がキーワードになっている。『silent』(フジテレビ系)の最終話において、カスミソウを贈り合う登場人物たちの姿が描かれたことと同じように、誰かが誰かを思って作る、あるいは買って手渡す「食べ物」が、「選べなかった“つながり”」のその先を描いている。 例えば冒頭の夏の夢の中の、夏と水季、海3人の家族の光景が生みだす、いつもの塩むすびではなく、梅干し入りの水季のおにぎり。落ち込む海を思って作る朱音のおにぎりには、水季が死んだ日に「海のために生きなきゃいけないから」食べたおにぎりの味が残っていて、後日朱音は同様の思いを込めて、夏にもおにぎりを振舞う。同時に描かれる、海と同じように落ち込んでいる夏を思って作る夏の母・ゆき子(西田尚美)のロールキャベツ。そして「元気がない時は、お行儀が悪いの許す」と言う朱音の言葉と同じように、ゆき子がタッパーから直接口に放り込んでみせるカボチャの煮付け。3人の母の思いが、子どもたちの命を繋げていく。 津野が夏に内緒で海と食べようとするケーキは、彼が今後も変わらず海の「甘やかし担当」として存在し続けるだろうことを予感させ、一方弥生は、自分のために作ったコロッケを美味しそうに食べている。第1話で夏に「別に、コロッケなんて作れないですけど」と言っていたのにも関わらず、第7話で手作りコロッケを海と夏に振舞っていた弥生の変化。手間がかかるそれを、今度は誰かのためではなく自分のために作れるようになった弥生は、自分が選んだ「好きな人と離れても自分が納得できる人生」を楽しそうに生きていた。 それと同時に、夏と弥生の「恋のはじまりと終わり」を印象づける終電を巡るエピソードは、その後の2人の「駅まで送るよ」と言い出す夏と、嬉しそうに一緒に歩く弥生の姿で「まだ途切れていない“つながり”」を示していたりもして、「私の“寂しい”決めつけないで」と弥生が言うように、彼女は決して、可哀想ではないのである。 前述した『くまとやまねこ』の主人公であるくまは、やまねこから渡された年季の入ったタンバリンに、やまねこもまた同様の喪失を体験しているのかもしれないと思いつつ、やまねこと旅に出る。「行きたいとこ行って、会いたい人に会えばいいよ」と言う夏の海への言葉は、まさにそんな人生という名の旅を予感させるものだった。海はこれからも、無数の見えない“つながり”に守られた世界で生きていく。それはなんと素敵なことだろう。
藤原奈緒