いつも日産車が隣にいた僕のクルマ人生
自動車ジャーナリストのレジェンド岡崎宏司氏が綴る、人気エッセイ。日本のモータリゼーションの黎明期から、現在まで縦横無尽に語り尽くします。 【関連】日産フェアレディ&フェアレディZの軌跡を振り返る 筆者にとって、プライベートでも、仕事でも、とりわけ深い関係を築いてきたのが日産のクルマだった。創立90周年を迎えた日産車との個人的な思い出の数々を振り返ります。
創立90周年迎えた日産の思い出
日産自動車が創立90周年を迎えたが、僕と日産車の関わりは1955年から始まった。69年前からということになる。 1955年は僕が15歳。当時は16歳で小型4輪免許証がとれた。エンジン排気量が2ℓ以下の小型車の免許証だ。 僕は16歳の誕生日を過ぎてすぐ免許証をとった。鮫洲試験場で一発合格。最速で免許証を手に入れたことになる。 そして、最初に運転したのが、1955年のダットサン110型。エンジンはサイドバルブの4気筒860cc/25馬力。これは、わが家が初めて手に入れた自家用車でもある。 上記のエンジンスペックでも分かる通り、性能的には下限ギリギリといったレベル。買ってすぐ、兄と二人で箱根へドライブに行ったが、山登りはきつかった。 遅い上にすぐオーバーヒート気味になる。頂上とのちょうど中間地点辺りに小さな滝が流れ落ちる水場があったが、そこで一休み。同時に、冷たい水をラジェーターに補給して、なんとか頂上まで辿り着いた。 1957年には、1000ccのOHVエンジン/34馬力を搭載した210型、通称ダットサン1000が誕生。わが家もすぐ乗り換えた。このエンジンは英オースチン系の技術を採り入れたもので、パワーだけではなく回転感も良かった。
同時にシャシー周りの性能も向上。箱根路も楽しめるようになった。なので、兄にせがんで、よく箱根に走りに行った。 1959年には310系ブルーバードがデビュー。ルックスも、走りも、乗り心地も(前輪には独立懸架を採用)、、すべてが大きく進化。わが家3台目の自家用になった。 その後も、わが家のクルマは日産車が続き、1961年にはセドリック カスタム1900、1965年にはプレジデントへとアップグレードしていった。 1955年のダットサン110 型から10年後のプレジデントまで、日産車5台を乗り継いだことになるが、、振り返ってみると、この10年間の日産車=日本車の変化と進化はすごいものだったと改めて思う。 ここまでは「わが家と日産車」の話だが、ここからは、「僕と日産車」の話に移る。 僕が自動車ジャーナリストとしての歩みを始めたのは1964年。「ドライバー」誌の編集者から始まった。 この話は以前にも書いたが、、当時、僕は「チーム8」という小さなクラブのまとめ役をやっていた。そしてTMSC(トヨタ モーター スポーツ クラブ)と親しく、ジムカーナを共催するといったこともやっていた。 そんな僕を日産は「トヨタの回し者」と捉え、日産広報車の試乗は許可されなかった。今考えると笑ってしまう話だが、まだ、そんな「石器時代!?」だったのだ。 ところが、1965年、シルビアの登場で石器時代は終わった。ドライバー誌の編集長が日産に直談判。「シルビアのテストを岡崎にやらせてくれ。その結果と記事内容で、トヨタの回し者かどうかを判断してくれ」と。