「3人の子どもをくれぐれも頼む」…激戦地の硫黄島から届いた手紙、家族を残してきた男性の願い
太平洋戦争末期、日米両軍の激戦地となった硫黄島から本土に届いた、10通ほどのはがきがある。安産か、男か、女か、顔が見たい、歌が聞きたい――。はがきに並ぶ鉛筆書きの小さな文字には、2人の幼い子どもと身重の妻を残して戦地へと向かった男性の、家族への思いが浮かぶ。(※手紙は一部、現在の表現に置き換えています。) 【動画】摺鉢山山頂の様子も…硫黄島で日米合同の追悼式
■旧帝大のエリート研究者
佐賀市の中山邦子さん(79)の手元には、父・平尾経信(つねのぶ)さんが硫黄島から妻や親族に宛てた、軍事郵便が10通ほど残されている。軍事郵便は、戦地の兵士と内地の人々を結んだ郵便だ。母の正子さんが2011年に亡くなった後、その遺品から見つかったものだ。 佐賀県出身の経信さんは九州帝国大農学部を卒業後、1942年に同大の助教授となり、主に朝鮮半島の演習林で林業の研究をしていた。「九州大学農学部五十年史」(1971年発行)には、「天然生林の生態学的研究および森林昆虫の分類などで貴重な業績を残した」とあり、将来を嘱望された研究者の一人だったことがうかがえる。 1944年4月、36歳のときに陸軍から臨時召集を受けた。7月に釜山(現・韓国)を出港し、東京都心から南方約1250キロにある硫黄島に上陸。臼砲大隊に所属し、少尉で「指揮班長」を務めていたことが、「硫黄島戦闘概況」(1979年、生還者や遺族らでつくられた「硫黄島協会」発行)や当時の名簿などに記録されている。 正子さんと、当時5歳の長男・卓也さん、1歳の長女・洋子さんは、朝鮮半島から帰国し、正子さんの実家がある佐賀県で帰りを待つこととなった。経信さんは、正子さんのおなかにいた3人目の子どもに、女子ならば「邦子」と名づけるように告げて家族と別れた。
■まだ見ぬ我が子が生きがい
硫黄島から経信さんは、家族に度々はがきを書いた。 44年8月28日に到着したはがきでは、第3子について<安産か、男か、女か>と案じた。無事に邦子さんが生まれたことを知ると、<出産を知り安心した。後の母体に御注意あれ。三人の子供の事くれぐれも頼む>(44年9月14日到着)と、ほっとした様子だ。「厳しい戦場にいた父にとって、私の誕生は楽しみであり、生きがいだったのでしょう」と邦子さんは思いをはせる。 経信さんは、子どもたちのことが何よりも気がかりだったようだ。 <卓也洋子もますます元気、邦子も夜泣き一つせずすくすく大きくなっている由、全く皆々様の御慈愛の賜(たまもの)と感謝に堪へません>(同11月5日到着) <卓也の入学も百余日となりました。学校に入る前に少々字を教え、人に負けないよう注意してください。洋子の歌が聞きたい、邦子の顔が見たいが仕方がない。最近の写真でも送ってください>(同12月23日到着) 幼い息子でも読めるよう、カタカナで<タクヤ ヨウコトナカヨクアソビナサイヨ トウチヤン>(同9月14日到着)と記されたメッセージもあった。 手紙は家族を気遣う内容がほとんどだ。穏やかな言葉と柔らかな筆致からは、優しく朗らかな人柄がにじみ出ている。