ブレイディみかこ「みんな違って、みんないい、は残酷」。“多様性”が一人歩きする日本の現状
英国の「元・底辺中学校」に通う息子の日常を綴った話題のエッセイ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ほか、著作を通じて「地べた」からの視点で社会と個人のあり方を問い続けるブレイディみかこさん。社会情勢に目を向ける大切さを教えてもらいました。 政治、ジェンダー問題…生きづらさから解放されるヒント(画像)
■女性が社会情勢に疎いって、誰が決めた? ――「自分自身の興味のあることは、おいしいごはんの作り方よりも政治や社会時評だ」という旨のお話を過去のインタビューでされています。ブレイディさんが政治や社会問題に興味を持たれたきっかけを教えてください。 ブレイディさん:私も毎日料理をするし、おいしいごはんのレシピにも興味がありますが、この発言は「女性エッセイストは料理やファッション、家族のことなどを書くものだ」というありがちなイメージに対して反論したい気持ちの表れだと思います。 私の著書が、女性エッセイ本のフェアに取り上げられたときに、「ブレイディさんの本がこのフェアに入っているのは違和感がある」とSNSで発信していた人がいました。選書されていた本が、政治時評的なエッセイだったからでしょう。世間では、女性エッセイは政治や経済について書いたものではないという思い込みがいまだにあるのではと感じます。 イギリスの新聞各社がこぞって執筆を依頼していたジェリー・バーチェルという女性コラムニストがいて、この方の文章は隣人のおじさんとトラブルが起きた、という身のまわりの話から始まったと思いきや、今のイギリスの年金システムとか、財政が苦しい状況になっているのはなぜなのかという問題につながっていくんです。ミクロからマクロに螺旋階段を上っていくようなコラムを書く人で。この人の文章を読めば、政治に疎い人でも興味を持たずにいられない。自分が日々疑問に感じていることが、いかに歴史や政治とかに関係しているのかを短い文章で教えてくれるんです。はじめてこの方の文章に触れたとき、「日本にはあまりいないタイプだな」と夢中で読み漁りました。 あとイギリスでは、政治の話をできないと退屈されてしまう気がします。パートナーとデートしてバーに行くとするじゃないですか。そこでは必ずといっていいほど「今の政権のことをどう思う?」といった話になります。友人同士の会話でも、政治や社会の話がガンガン出てくる。「君の意見は?」って聞かれて、何も答えられないとがっかりされるわけです。子ども扱いされるというか。パートナーや友人といい関係を築くには、社会情勢に対してしっかりと意見を持たないと同等に扱われなくなる。 ――ブレイディさんの著書『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にも、家族で政治の話をするエピソードが出てきますね。 ブレイディさん:あの本を出したときに「なんでこんなに政治の話をするんだ?」って聞かれたこともあるんですが、それは日常的に夫婦でそういった話をしているから。夫婦だけでなく、近所の人とだって、ママ友とだって世間話として政治の話をします。むしろしないほうが違和感がある。日本とはまったく異なる環境ですよね。 ■政府が個人の生活に口出ししてくるのは普通じゃない ――ブレイディさんのエッセイ『転がる珠玉のように』では、主にコロナ禍での暮らしが綴られています。イギリスでは厳格な外出制限もあり、日本以上に生活に変化があったかと思いますが、コロナ禍を振り返ってみてどのようなことを感じますか。 ブレイディさん:コロナに苦しめられた時期って、今の暮らしから切り離されているように感じますよね。でもコロナの流行が終わったとしても、コロナが存在しなかった頃に完全に戻ったわけじゃないと最近よく思います。 最近の話なんですが、薬局に行ったらおじいちゃんがマスクをして買いものに来ていたんです。日本に比べてイギリスでマスクをするのは珍しいことではあるのですが、店内にいる若い男の子がそのおじいちゃんにわざわざ「コロナなんてもう4年前だよ、マスクなんてしなくていいんだよ」と声をかけていたんです。 でも、そんなの大きなお世話じゃないですか。マスクをするかしないかは個人の自由であるべきで他人にとやかく言われる問題ではない。コロナのときに政府がやっていた、個人の行動に口を出すという行為が当たり前になりすぎてしまって、放っておけばいいのに口を出してしまうみたいな習慣が残ってしまっているのかもしれません。異常な状況でもどんどん慣らされていって「こんなもんだろ」と思うようになってしまう感覚というか。でもこれは全体主義的だし、一番のホラーであることは知っておきたいですよね。 ――過去のインタビューで「コロナ禍ではなんとかなると信じてもがいていくしかなかった」とおっしゃっていましたが、もがくために頼りにしていたものはありましたか。また、もがいた結果、得たものはありますか。 ブレイディさん:コロナとか関係なく、人はもがくしかないというか、もがくのって当たり前のことじゃないですかね。生きている以上はもがくしかないし、もがくってそんな特別なことじゃない。日本はアメリカと似ていて、素敵に輝いている人をロールモデルにしがちですよね。 以前、アメリカの女性ライターが「イギリスの刑事ドラマに出てくる女性刑事の描写がすごい」と褒めている文章を読んだのですが、イギリスのドラマに出てくる女性刑事って生活臭がしっかりと描かれているんですよ。アメリカの刑事ドラマに登場するような、おしゃれでバシッと決めていて、どうやってそれで犯人を追い詰めるの?ってくらいのピンヒールを履いている女性刑事は出てこない。 走りやすい靴を履いているし、口紅もはげちゃってるし、シミもシワもある。かっこよく昇進もしないし、私生活もうまくいってないし、上司とケンカもする。人気ドラマに、もがいている女性が登場するのが普通であるイギリスで暮らしていると、「もがく」という言葉ひとつにしても、そんなたいした言葉じゃないと思って使うようになる。 ■「みんな違って、みんないい」って誰の目線? ――ドラマの女性刑事の描き方ひとつをとっても、イギリスでは「世界にはさまざまな人がいる。それは当たり前のことである」という共通認識が深く根付いているのを感じますね。ただ、日本では「多様性」という言葉が一人歩きしてしまっている気もします。 ブレイディさん:イギリスでは1990年代の末くらいに「多様性」という言葉が流行したんですよね。ブレアが首相になった頃だから、もう30年くらい前。移民を受け入れてきた国で、街にも外見の異なる人々がたくさん歩いているから、違うという現実が目の前に広がっています。 日本ではこの言葉はかなり遅れて広がり、多様性というと「みんな違って、みんないい」という意味で使われていますが、みんなが違うということは、いいとか悪いとかの問題じゃない、と感じます。「あなたたち神様なの? どこからものを言ってるの?」って思います。いいとか悪いとか、善悪をジャッジするものではなく、現実問題としてみんな違うわけです。 よく言っているのですが、貧困でお腹を空かせている子も、裕福で不自由なく暮らしている子も「みんな違って、みんないい」とするのは残酷です。日本は見た目がほぼ均一だからみんな同じに見えてしまうかもしれませんが、一皮むけば環境も思想もまったく違うってことは現実にあるわけですよね。違うという現実を受け入れて、そこからどうやって共生し、どのような社会を構築していくかを考えていかないといけないのではないでしょうか。 ▶ ブレイディみかこ「日本にはめちゃくちゃ“縦の多様性”がある」 へ続く ブレイディみかこ ライター・コラムニスト。福岡県出身。音楽好きが高じて1996年から英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業に勤務したのち英国で保育士資格を取得、「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。2017年『子どもたちの階級闘争』で新潮ドキュメント賞を、2019年『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でYahoo!ニュース|本屋大賞2019年ノンフィクション本大賞などを受賞。最新作は『転がる珠玉のように』。 イラスト/よしいちひろ 取材・文/高田真莉絵 構成/渋谷香菜子
『転がる珠玉のように』ブレイディみかこ(中央公論新社)