アンプティサッカー5年(下)日本の戦術を変えた惨敗、W杯快進撃へ
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片脚や片腕を切断、もしくは先天的に失った人たちが、つえを使って戦うアンプティ (amputee:切断者)サッカーの日本選手権が11月22、23日に川崎市の富士通スタジアム川崎で開かれる。 【動画】(上)“片脚のサッカー”ゼロからの日本代表誕生 片脚のない人がつえを使ってフィールドプレーヤーを務め、片腕の人がGKに。通常のサッカーの3分の2ほどのピッチを、つえをついて走る6人のフィールドプレーヤーとGK1人でカバーするという過酷な競技だ。アンプティの元ブラジル代表のエンヒッキ・松茂良・ジアス(26)の来日をきっかけに国内で競技の普及が始まり、代表監督の杉野正幸(42)らの尽力で、関係者は2010年のW杯初出場や、11年の初の選手権開催を果たす。12年、日本にとって2度目のW杯となるロシア大会へ。選手層を厚くし、世界と互角に戦えるという自信を持って望んだ代表選手たちに、大きな試練が待ち受けていた。
2度目の大舞台、6試合で34失点
1次リーグ初戦のウクライナ戦に1―2で競り負けると、転がるように4連敗。「レベルの高いメンバーをそろえたことと、勝つことは別でした。みんな確かに必死だったんですけど、やっぱり戦い方が甘かった」(エンヒッキ)。大会中にフォーメーションを変更したり、攻守のバランスを変えたり試行錯誤を重ね、1次リーグ最終戦、リベリア相手に4-4で引き分け、大会初の勝ち点1を獲得した。 5敗1引き分けで最下位。勝利こそつかめなかったが、終盤には手応えも感じた。進歩はあった。ただ、6試合で34失点の事実は重かった。強豪トルコには屈辱的な13失点を喫した。 杉野「ロシアでこてんぱんにやられたのは、ディフェンスの大切さ、試合の入り方での失敗が大きかった。大会中に考え方を切り替えて、功を奏した経験も含めて、一人一人の意識に受け継がれました。点を入れられない限り、結果がついてくると分かったのが、ロシア大会の一番の成果でした」
惨敗は、日本を本質的に変える。導き出された答えは守備重視の徹底。選手権は翌13年の第3回大会から、テクニシャンを後ろに下げ、重心を低くするクラブが目立つように。エースが攻め上がれば、エースがマークにつく。見応えのある1対1の場面が増えた。 第3回大会を制したのはFC九州バイラオール。フィールドプレーヤーをほぼ日本代表が占め、正確なパスワーク、キープ力を誇る攻撃的チームが、攻めたい気持ちを抑え、DFラインを3人にする守備的戦術で初優勝をつかんだのは、アンプティの転換期の象徴だった。特に、FCアウボラーダ川崎との決勝では、日本代表の攻守のキーマン、萱島比呂(19)を3バックの中心に据え、エンヒッキに仕事をさせなかった。 守備重視の姿勢はデータにも現れている。ロシア大会前後の選手権の1試合の平均得点を比較した。(※選手権は各年で大会方式が異なるため、方式が共通する4強以上の試合、準決勝と決勝、3位決定戦を対象にする) ・第2回(12年)4.25 ※ロシア大会直前 ・第3回(13年)4.5 ※ロシア大会後 ・第4回(14年)3.25 得点はいったん増えたものの、減少。14年のロースコア化は顕著で、大会史上初、0-0でのPK戦も。守勢のチームが攻めに人数をかけず、PKに持ち込んでも構わない、という意図の見えた試合だった。川崎と九州が争った第4回大会の決勝もロースコアの展開、1-1で大会初の延長戦に突入。前回のリベンジを果たすべく、九州以上に守備的戦術でゴール前を固めた川崎が、終了間際の得点で競り勝った。 その決勝では、イエローが4枚。大会初となる一発レッドも。国内大会では例がないほどカードが飛び交ったが、決して荒れた試合ではなかった。テクニックに勝る相手を反則を交えてでも止める。止められた側は審判にファウルをアピールする。レッドは、同点の後半、カウンター気味に抜け出ようとしたエンヒッキに対して、萱島の退場覚悟の後ろからのタックルだった。 勝利への意欲をむき出しにした結果の、ロースコアゲームやカード連発。分厚い守備を破っての1点の重み。得点を奪い合う大雑把な試合やワンサイドゲームとは違う次の段階に、日本アンプティ界が進んだ大会だった。