家族にはいない「我が子」を死の間際に抱きしめようとした母…「お迎え現象」に現れる人々
いまは亡き最愛の人と出会う、過去の追体験をする、旅をする……。死の間際に見る幻視体験(臨終期視像)はさまざまだ。 【画像】私たちは「お迎えの瞬間」に何を見るのか ホスピスで無数の「臨終の場」に立ち会った医師のクリス・カーは、死を目前にした人たちが“幻視”によって深い安らぎを覚え、過去の傷が癒されていく様子を記録した。 残された者たちはその幻視を頼りに、旅立つ人たちの人生の意味を理解する。「それは決してせん妄と片付けるべきものではない」とカーは語る。 米誌「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」で公開直後、1000件以上のコメントが殺到した話題の記事を全訳で掲載する──。
「臨終期視像」は幻覚ではない
クリス・カーが初めて臨終期視像を目の当たりにしたのは1974年、12歳のときだった。 その夏の記憶はぼんやりしているが、カーは死の床にあった父親の枕元で感じた神秘をはっきりと覚えていると語る。 幼少期を過ごしたカナダのトロントでは、外科医の父親は多忙をきわめ、親子の時間はあまり持てなかった。唯一の例外は年に一度の旅行で、父子水入らず、カナダの大自然で釣りを楽しんだ。 しかし、父親は42歳のときにがんを発症した。 父は衰弱しながらも、カーが着ているシャツのボタンに手を伸ばすと、それを指でいじりながら、飛行機に乗って森のキャビンに行くから用意をしよう、といったことを口にした。 「すぐにピンときました。父がそのとき、何を体験していたのであろうと、きっといいところにいるに違いないと思いました。だって、2人で釣りに行こうとしていたのですから」とカーは言う。 カーが手を伸ばして父親に触れようとすると、誰かが肩に手を置いた。病室に同行していた牧師が、お父さんは錯覚を起こしていると言って、カーをその場から引き離したのだった。 父親は翌朝早く、息を引き取った。カーは当時を振り返って、あれは臨終期視像だったと話す。 錯覚などではなく、父親は自らの心にいざなわれ、カナダ北部の大自然のなか、息子と2人きりになれる空間、時間に存在していたのだ。 幼いカーにそうした様子を見せまいとした牧師の行動は、誤りだったのではないか。