<安彦良和>回顧展「描く人、安彦良和」インタビュー(1) 創作の原点 転機となった「ヤマト」「ガンダム」
◇1989年のアニメ引退の理由
安彦さんは1966年に弘前大に入学するが、学生運動に参加したことから除籍となり上京。1970年、虫プロダクションに養成所2期生として入社する。1973年、虫プロダクションの倒産後はフリーとなり、「ゼロテスター」などに参加する。大きな転機となったのが、絵コンテを担当した「宇宙戦艦ヤマト」だ。1974年に放送をスタートした「宇宙戦艦ヤマト」は、アニメブームを巻き起こし、アニメは子供だけのものではないという認識を広げた。
「『ヤマト』に関わったことは大きかった。こういう世界もあるんだ……となった。よく言うことですが、それまでアニメーションをやっていることが恥ずかしくて、あんまり人に言えなかったんです。いい大人がやるもんじゃないという気持ちがどこかにありました。ただ、(『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーの)西崎義展という人はインパクトがありました。こんなに偉そうにしてもいいんだって(笑い)。自分はまねしないけど、あの人はちょっといないタイプでした。西崎さんの真似はできないんだけど、広いターゲットがいることが分かったわけです。『勇者ライディーン』をやっている時もスタジオに高校生や大学生の女子がくるんです。彼女たちもいいところを見てくれていたんです。その先陣を切ったのが『ヤマト』でした」
1979~80年放送の伝説のアニメ「機動戦士ガンダム」では、キャラクターデザインとアニメーションディレクターを担当した。「機動戦士ガンダム」は今も愛される名作だ。ただ、当時は少数精鋭で制作していた。
「当時は零細プロダクションでしたからね。戦力が乏しかったんです。少ない戦力でどこまでできるのか?とやっていました。それなりの手応えはあったので、『10年くらい記憶に残る作品になればいいな』と話したことがありましたが、それ以上になったんです」
その後、1983年公開の劇場版アニメ「クラッシャージョウ」、1984年放送のテレビアニメ「巨神ゴーグ」、1986年公開の劇場版アニメ「アリオン」などの監督を務める。