「戦場ヶ原の稲妻」R30スカイライン|長年情熱と愛情を注ぎ作り上げた!|スカイラインの生みの親 櫻井眞一郎が描いた夢とクルマ
学歴ではなく現場の実力を評価し、いいクルマ作りを目指していた
安全で走りもいいクルマを生み出すため、櫻井さんが開発の中心になってからは妥協を許さない設計を心がけた。だから開発しているときは部下に厳しい指導を行ったのである。自動車の開発チームは大所帯だ。大学や大学院を出たエンジニアやデザイナーだけでなく、工業高校を卒業して富士精密工業やプリンス自動車に勤めたエンジニアも少なくない。櫻井さんが重用し、頼りにしたのは高卒のエンジニアだ。 櫻井さんは大口をたたくエンジニアやエリート意識の強い人には厳しく接し、鼻っ柱をへし折った。これとは逆に、真面目で、真剣にクルマの設計に取り組む部下には兄弟のように接している。初代スカイラインの開発に携わった若い頃、櫻井さんは、それほどクルマづくりに情熱を燃やしていなかったように思う。が、あるとき、ニッポンの自動車産業を支え、成長させたのはエリートではなく、その下で縁の下の力持ちとなっていた高校卒のエンジニアだと気が付いたのだろう。彼らは現場での経験が豊富だったから手際が良かったし、裏技も知っている。また、「ものづくり」に対する情熱も櫻井さんを上回っていた。愕然としたはずだ。これ以降、学歴ではなく、実力主義で部下を評価するようになり、あうんの呼吸で仕事ができる部下を好むようになる。 こういった部下とは、仕事を離れた後も親しく付き合ったそうだ。 多くの人たちから受けた「愛」に報いるために、スカイラインを血の通った乗り物へと育てた親分肌のエンジニア、それが櫻井眞一郎さんである。
Nosweb 編集部
【関連記事】
- プリンスファン垂涎! 櫻井眞一郎直系のオーテックが手掛けた最後の「正統」なホーミー|1996年式 日産 ホーミーコーチ スーパーロング GL-L【2】
- 初代に魂を揺さぶられ入社。櫻井眞一郎さんから叩き込まれた、エンジニアとしての基本姿勢と設計哲学|SPECIAL INTERVIEW - スカイライン開発主管が語る、プリンスと日産 - 伊藤修令 Vol.1
- 幻の名車 日産 MID 4|市販化に向けて踏み出そうとした、MID4‐II(仮称)開発プロジェクト|日産 MID 4-Ⅱ
- 両車の対決がもっとも激しくなった1980年代、互いを磨き上げる好敵手:セド・グロvsクラウン頂上決戦 全体目次|50年以上にもおよぶ最高のライバル関係 セド・グロvsクラウン
- 車歴は「ST‐18#系セリカのみ」の女性オーナー【1】「チルトアップで 入る風が気持ち良いです」|1990年式 トヨタ セリカ GT-FOUR A ワイド