【尾崎豊の生き方】実兄が「豊の曲は“反権力”などという捉え方はしていない」と語ったのは何故か
端正なマスクに、ほとばしる情熱。熱い想いを込めた詞と曲は聴く者の胸を打ち、多くのファンを生みました。アーティストとして突出していただけでなく、若者のカリスマでもあった尾崎豊(1965~1992)。そのあまりにも突然の死は、大きな反響を呼びました。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は尾崎の人生に迫ります。 【写真】執行猶予判決、謎の不審死…激動の生涯を貴重写真で振り返る
「荒れる学校」が社会問題になった時代
バブルへと上り詰めていく1980年代の浮かれた世相に背を向けるかのように、大人社会や管理教育への反抗、自由を訴えた。1992年4月、突然の死で26歳5カ月の生涯を閉じたロックンローラー・尾崎豊である。 「伝説のロッカー」「伝説のシンガー・ソングライター」と言われることもあるが、「伝説の」という言葉自体、白々しい。 負の感情をストレートに吐き出し、心の傷や闇を隠さなかった。まさに豪速球。全力で詞を投げ込んでくる。26歳の生涯は確かに短かったが、人生を全力で駆け抜けたと言っていいだろう。生きていれば、いま58歳。でも、58歳の中高年・尾崎豊を想像したくはない。 私は尾崎より4歳年上。彼が青春時代を迎えた80年代前後の時代をよく覚えている。いじめや校内暴力など「荒れる学校」が大きな社会問題となり、偏差値教育や受験競争のひずみが露呈した時代でもあった。 私が通っていた神奈川県立川崎高校は、学園闘争で2度も機動隊が突入。荒れに荒れた高校に変わった。旧制川崎中学の流れを汲み、県内でもトップクラスの進学校だったが、定期考査や制服など管理教育の象徴とみられるものを全て廃止し、常識を押しつけてくる大人に対しては徹底的に反発した。いつも何かにイライラし、何かあるとキレてケンカをする友人が多かった。 尾崎は青山学院高等部に進学したが、受験勉強なんて馬鹿馬鹿しいと思ったはずである。3度の停学処分の末、84年、高校3年生の時、中退している。もちろん、学業より優先していた音楽活動を本格的に始めるという理由があったのではあるが……。 今回、本コラムを書くにあたって、ファーストアルバム「十七歳の地図」に収められた10曲を聴いた。そこには、登校拒否、高校中退、初恋、壁に頭をぶつけ、素手でガラスを割る孤独な少年の飾らぬ告白が潜んでいる。 それまでの70年代のいわゆる「四畳半フォーク」は、ジメジメとした自分の世界観に閉じこもってしまうような面もあったが、尾崎は自分を取り巻く世界や大人社会の状況を冷静に見ながら、ナイフのように鋭い言葉で現実を切り取った。それは偏差値支配の学校で傷つけられた若い心、同世代の若者の心そのものでもあった。一方、長身で端正なマスク、天賦のスター性があったのも、尾崎の尾崎たるゆえんであろう。