【尾崎豊の生き方】実兄が「豊の曲は“反権力”などという捉え方はしていない」と語ったのは何故か
死は本人にとって最も意外なかたちでやってくる
「死は、推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやってくる」と作家の山田風太郎(1922~2001)は言ったが、尾崎の死もまさにそうだった。時計の針を92年4月25日に戻す。翌日の朝日新聞は、朝刊社会面で尾崎の死をこう書いている。 《25日午前5時10分ごろ、東京都足立区千住河原町で、ロック歌手の同区千住曙町、尾崎豊さん(26)が泥酔して民家の庭に座りこんでいるのを、住人の110番で駆けつけた千住署員が保護し、救急車で病院へ収容した。尾崎さんはいったん自宅へ戻ったものの容体が悪化、午前11時ごろ再び救急車で文京区の日本医大病院へ運ばれたが、午後零時6分、死亡した。千住署は行政解剖して死因を調べる予定。/同署によると、尾崎さんは最初に保護された時、衣服を付近に脱ぎ捨て、下着1枚で座り込んでいた。また、転げ回ったようなかすり傷が何カ所かあったという。自宅へ戻って休んでいたが、ぐったりしているのに家族が気づき、再び病院へ運ばれた時は意識がなかったという。》 家族の話では、前夜10時ごろからパーティーがあり、そこからの帰宅途中だったらしい。当初、急性アルコール中毒の可能性もあると言われたが、死因を調べていた千住署は27日、司法解剖の結果、肺水腫による病死と断定した。 84年8月、東京・日比谷野外音楽堂 で行われた反核コンサート「アトミック・カフェ」に出演し、照明のやぐらから飛び降り足を骨折するなど、体当たりのステージが注目を集めていた尾崎。硬派のロック歌手として高い評価を得ていた一方、87年暮れには自宅に覚せい剤を隠していた疑いで警視庁に逮捕、88年に執行猶予つきの有罪判決を受けた。 あまりにもまっすぐ生きようとすると、人とぶつかるし、ケンカにもなりかねない。だが、妥協せず、音楽活動を再開。結婚し、子どもが生まれ、家庭人にもなったが、「孤独な尾崎豊」であることをずっと自分に課していたのだろうか。音楽業界で売れることへのプレッシャー? 「10代の教祖」とまで言われたことへのプライド? ファンへの思い? 一体、何が尾崎をそこまで追い詰めたのだろう。