YOASOBIの「アイドル」が映し出す日本の姿とは?“執筆3年の邦楽通史”に対する想いも<みのミュージック>
YOASOBI「アイドル」が映し出す“日本っぽさ”とは?
―――“空”ですか。その、わからなさ、実体をつかめない感じがあらわれている新しいヒット曲で具体的に思い浮かぶものはありますか? みの:ネット上でミーム的な拡散をしている楽曲の、面白ければなんでもありみたいな感じには日本っぽさを感じます。TikTokで流れるものとか、YOASOBIの「アイドル」とか、ものすごい曲想が1曲の中でめまぐるしく変わる。集中力が短くなっている現代人に向けて意識的に作っているAyaseくんは、そういう時勢を見抜いているソングライターのひとりですね。 ともあれ、ひとつの曲の中ですら消費のスパンがものすごく短いですね。だから、アイデンティティやオリジナリティということで言うと、調べれば調べるほどわかんなくなっていく。本当にミステリーなんです。よくよく考えると、日本人って音楽に限らずあらゆるジャンルでその探求をしてますよね。でも多分そんなものないんじゃないですか。 たとえば、イギリス人がイギリス的なものとは何かなんて考えるようなものかと。イギリスと一言で言っても、ローマ的でありアングロ・サクソン的でありフランス的であり、バイキング的であり、ひとつの要素に断定はできないんですよ。日本は中国とくらべてここが違うとか、そういう部分にこだわってきましたよね。でも今になって、そもそも国ごとに明確なアイデンティティなんて多分ないぞと気づき始めているのかもしれません。
日本人の“自分”はどこにあるのか?
―――そのお話をうかがって、吉田健一や伊丹十三が指摘していた問題が浮かんできました。両者の指摘は、日本人ほど“自分たちの力で独自のものを作り出した”ことにこだわる民族はいないということ、その一方で徹底的によそのモノマネができないということです。 みの:他国の文化を取り入れてコンパクトにするとか、洗練させるとかは確かに得意なのだけれど、でもそれってイコールものまねができていないってことですよね。そう考えると、そこに日本人の“自分”がある気がしますよね。あるものをかっこいいと思ったら、その表面だけをまねするけど、その裏側にある思想性までは研究しないのが日本人なのかもしれない。 岡本太郎が、日本人は文化の毒の部分を摂取しないと言っていたことがあります。でも、そういう深い部分を置いておいて、その場その場でとりあえずやっていくという日本的な良さもあるんですけど。