「ここにいた人たちは、もう疲れることもできない」520人が犠牲になった日航機墜落事故 38年前の夏、20代だった記者は「御巣鷹」の急斜面を歩き続けた
「焼けた木にひっかった犠牲者をいくつも収容した」「捜索中に木だと思って引っ張ったら手だった」「谷の川を流れていくご遺体を何度も見た」「焼け焦げた木と思って見過ごしていたら人の形をしていた」―。 ▽美しい景色の中、ここだけが別世界だった さらなる生存者発見を願っていたが、取材が進むほどそれが絶望的なことが記者経験の浅い自分にもわかった。いったいどれだけのかけがえのない命がこの山中で失われたのか。520人一人一人の突然断ち切られた人生を確認するかのような取材に、この場から逃げ出したくなった。 それにしても、尾根の頂上付近から見渡す景色は美しかった。青々とした樹木が輝く夏山がまぶしい。日没が迫ると空はあかね色に染まった。自分たちがいるここだけがまったく別の世界だった。 「機体があそこをかすめて、こっちに落ちたんだ」。谷の向こうを記者の一人が指さした。その先には、山頂がU字形にえぐれた山肌が見えた。
のちに御巣鷹の尾根と呼ばれる墜落現場には数日通った。 ある日には、途中の山道の脇を流れる小川に服のまま入る報道関係者とおぼしき人影数人を見た。あまりの暑さに川で体を冷やしていたのかもしれない。夕刻に入山口に戻るとやはり報道関係者が何人も地面に直接寝そべって眠っていた。 ▽痛恨の失言 山頂近くで休息していたときのことだ。同じように座って休憩中だった30代くらいの機動隊員と目が合った。紺色の制服の胸に「神奈川県警」とある。「横浜支局の記者です」と声をかけると、「ビタミンC入りのウーロン茶だ、飲めよ」と水筒を渡してくれた。一口もらい、思わず「疲れますよね」と言ってしまった。 汗みずくの隊員は周囲をぐるりと見回し、「疲れるのは生きている証拠だ。ここにいた人たちはもう疲れることもできないんだから」と言った。私は自分の失言を心から恥じ、改めて犠牲者の冥福を祈った。 一度だけ、事故調査委員会の記者会見に出た。覚えているのは、連日調査活動を続ける調査官の疲労がにじんだ険しい顔と、墜落現場の所在地が「群馬県上野村村内の名もなき山の尾根の中腹」という発表内容だけだ。犠牲者の無念さを察するに余りある会見だった。
あの夏、あの現場で見た光景は勤務地に戻ってからもなかなか頭を離れなかった。体はくたくたなのに早朝に目が覚めた。 しばらくして、親戚の叔父から連絡があった。いとこの遺体が見つかったという。「地中深く潜っていたけど、五体は身元が特定できる状態だった」。叔父は静かに言った。