「なぜここに…」世界的な現代アート巨匠の遺作が、津波施設に残された真相 建築家・隈研吾氏が驚いた作品。町と隈氏と巨匠、3者の知られざる思い
▽建築家・隈研吾が見た「MEMORIAL」 作品を収容する伝承施設「南三陸311メモリアル」の建築を手がけたのは、建築家・隈研吾さんだ。隈研吾建築都市設計事務所は、「南三陸さんさん商店街」など一帯のグランドデザインも担った。 南三陸町がボルタンスキーに作品を依頼したいという話を聞いた隈さんは、取材にこう答えた。 「驚いたけど、僕もまさに彼がこの展示にぴったりな人だと思ったから感激した」。ボルタンスキーを「空間のなかに濃密な空気感を作れる人」と評する隈さんは、建築家としていつも憧れをもって見ていたと明かす。町の人々の復興に関する取り組みに接する中で「記憶に対する向き合い方が真摯」と感じていた。その姿勢がボルタンスキーと結びつくように思えたという。 さびた缶を積み重ねた「MEMORIAL」の構想を提案された際の印象については、こう振り返った。 「何でもない物質を特別なものに感じられるようにしたいといつも思っているので、アイデアはすごく魅力的に感じた」
ボルタンスキーが被災地を訪れたことにも触れた。「東京では段ボールなどの包装が多いが、東北など地方に行くと缶のようなものは残っている。そういうのを彼は多分感じ取ったのではないか。日本を何度も訪れ、東京と南三陸町の距離感が分かっている人だからこのような作品が作れたのだと思う」 ボルタンスキーは作品のイメージをすり合わせるため、パリにある隈事務所に足を運び、話し合いを重ねた。隈さんはパリの事務所を訪れると、今でも懐かしさがこみ上げるという。「ここにボルタンスキーが来てくれたのだなあと思う」 ▽加工を繰り返した地元の職人たち 作品で使用した缶は1千個超。缶の腐食加工も、南三陸町で行われた。現地での制作を提案したのはボルタンスキー側だったと、隈事務所でプロジェクトの実務を担った名城俊樹さんが説明する。 加工を請け負ったのは町内の「三浦板金工業」。本業はアート制作ではない。 職人たちは試行錯誤を繰り返した。缶を人工的にさびさせるにはどうすればいいのか。吉川さんも製作現場を何度も訪れ、作品のテーマや、試作の中から彼の意図に近いものはどれかなどを語り合った。制作で印象に残ったのは、職人の1人が話したこんな言葉だという。「缶にさびを施していたら、一個一個が人間に見えてきた」
さびた缶を作り上げるため、職人たちは水道で洗ったり、風にさらしたりした。職人の家族も加わり、ひとつとして同じものはない膨大な数の缶を作り上げた。 ところが作品完成を控えた2021年7月、ボルタンスキーは病気で亡くなった。76歳。訃報は世界に衝撃を与えたが、それは南三陸町や隈事務所にとっても同様だった。それでも生前に送られていた作品の3Dデータから、遺作「MEMORIAL」を完成させた。 施設内に設置して完成した作品を見て、隈さんは改めて驚いたという。「彼が建物を予測してここに置いたのではないかと思えるぐらい、はまっていた」