「シュルレアリスム100年映画祭」が開幕、巖谷國士氏が“シュルレアリスムと映画”を解説
渋谷・ユーロスペースで開催中の「シュルレアリスム100年映画祭」にて、シュルレアリスムに関する数多くの著書を発表している仏文学者で写真家、明治学院大学名誉教授でもある巖谷國士氏が登壇したトークイベントが10月5日に行われた。 【フォトギャラリー】「シュルレアリスム100年映画祭」場面写真 本映画祭は、20世紀最大の芸術運動、シュルレアリスム誕生から100年を記念し、シュルレアリスム映画の名作と主要人物にフォーカスしたドキュメンタリー作品を紹介する特集で、日本初公開作3本、日本劇場初公開作3本を含む全10作品7プログラムが上映される。 上映時間前後の30分という限られた時間だったことから、巖谷氏は「ちょっと短すぎるので、かいつまんで即興で色々とお話します」と前置きし、「シュルレアリスム100年映画祭」と題されている本特集から、「よく“シュルレアリスム映画”と言われることがありますが、そういうジャンルはありません。むしろ“シュルレアリスムと映画”であって、この両者は非常に密接な関係があるのです」と説明した。 「映画は1895年の終わりにリュミエール兄弟の作品がパリで上映されたのが最初で、それからすぐメリエスというもうひとりの巨人も現れます。シュルレアリスム運動を代表するアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンら、その仲間たちは、ほとんどすべて1895年の前後、映画と同じ頃に生まれていて、物心ついたときから映画があった」と、シュルレアリストたちと映画は同世代だと強調し、その時代背景を語った。 「それ以前の世代の作家たちにとっては、映画というのは新しく生まれた怪しいジャンルでよくわからないもので、映画はアートではなく記録のためのものという見方をしている人が多かった。でもアンドレ・ブルトンをはじめ、シュルレアリストたちの世代は初めから映画になじんでいただけでなく、彼らの作品には映画的な部分があったし、映画のほうにもシュルレアリスム的な部分がもともとあったので、第一次大戦後、映画を作るようになったのも当然のことです」 そして、1920年代にシュルレアリスム的な発想から映画を作った代表的なアーティストとしてマン・レイとマルセル・デュシャン、さらにルイス・ブニュエルを紹介する。それ以後、詩人で「天井桟敷の人々」などのシナリオを書いたジャック・プレヴェール、同じくそのプレヴェールのシナリオで、高畑勲・宮崎駿らにも影響を与えたアニメーション作品「王と鳥」のポール・グリモーなども、シュルレアリスムにかかわった作家として挙げた。さらに、現在も活躍する映画監督として、チェコのヤン・シュバンクマイエル、それにチリのアレハンドロ・ホドロフスキーにも触れた。 そもそも「シュルレアリスムというもの」は、「よく言われるような、詩や芸術を作るための方法論とか技術とか様式とか、そういうことではなくて、世界の見方、人間の生き方そのもの」だと言う。 「世界をどう見るかというとき、まず重要なのはオブジェという考え方です。人間は近代的自我というものを持って以来、外界のあらゆるものを自分と関連したものとして主観的に見るし、資本主義社会では用途、有用性で見てしまう。ところが、実際に世の中にあるものはもともと外に投げ出されたオブジェなのであって、サブジェクト(主体)に従属していない。用途さえもない。そのオブジェの発見がシュルレアリスムの出発点にはあった」と。 そういう世界の見方の一例として、男性用の小便器を横に倒して展示したデュシャンの代表作「泉」を挙げた。「あれはもはや便器という用途から解放され、オブジェに戻されていた。ひとつの見方からすると、すべての“もの”がこの近代の資本主義社会ではある役割、用途を持ち、時には値段のある物品として見られているけれども、デュシャンはそうではないただの"もの"として、便器を提示した。むしろ世界はもともとただの“もの”で成り立っているという世界観も、そこには含まれていた。 たとえば自然物、木や草に咲く花もなる実も、本来は人間にとっての用途ではない。すべて外に投げ出されているもの、オブジェなので、人間の主観とは無関係。そういう意味で、オブジェの思想にはひとつの解放がある。じつは人間も本来はオブジェなので、内面だけで、あるいはそれ以上に、用途や有用性だけで捉えてはいけない。いまの社会では人間ひとりひとりが道具とみなされ、有用性や生産性とかいうものを、政治からも社会からも求められている。でも、もともと人間は商品でも道具でもなく、有用性も何もない単なるオブジェだという考え方から、シュルレアリスムが出発するのです」 そういったシュルレアリスムの見方から、「映画も実はオブジェの現れるもの、人間もオブジェとして映るもの」だったこと、とくにサイレント映画の時代にはそうだったことが指摘される。「言葉のない映像作品では、人間が意味から解放される可能性もあった」という。マン・レイがトーキーへの移行期に映画制作をやめたのも、映画の企業化に反抗しただけでなく、映像を言葉で説明することへの抵抗があったからである。 さらに、シュルレアリスムと映画のもうひとつの重要な要素として、シュルレアリスムの出発点だったオートマティスムということがある。 「オートマティスムは、あらかじめ何も考えずにものを書くという自動記述の実験から始まった。人間の思考は、あらかじめ用意して、理性によって合理主義的に組み立て、それをまとめて概念化するものではない、という考え方。いや、考え方というより、そのほうが真実だろう。人間の思考は夢がそうであるように、言葉に先立って思考があるわけではなく、言葉として、イメージとして出てくるものだから。映画にもそういうところがあって、夢みたいに何の説明もなしにイメージが展開する。それが思考の流れに作用してくるわけで、映画と夢はよく似たものです」 「夢は、人間の昼間の思考があって、夜の夢という別の世界があるのではなく、思考と夢との間には、例えば夢うつつ、と呼ばれるどちらとも言えない状態もあるとおり、連続している。人間は夢を含めて漠とした大きな思考のなかの、ある表面的な部分を理性的な合理主義的な思考と呼んでいるにすぎないわけで、本当はもっと広い世界のなかにいるのではないか、と言うのがシュルレアリスムです」 さらに、意外なもの同士を結びつける方法論として知られるコラージュについても言及された。「コラージュは方法論である以前に、物事の意外なもの同士が不意に結びついてしまうということが実は現実であり、むしろ偶然というものが、人間の生きている世界の原理だという捉え方につながってゆく。そういうことをすべて合わせてみると、とくに初期の映画はシュルレアリスムの要素を持ち、シュルレアリスムのアートの可能性に満ちていたように思います」と、シュルレアリスムと映画の関係について観客に語った。 この日に上映されたのは「金で買える夢」(1947)で、まず「思わず笑っちゃう、とにかくおかしい映画」と語る巖谷氏。かつてダダ運動の観察者だったハンス・リヒターが監督・脚本・編集を務め、7つの夢を描くもので、マックス・エルンスト、フェルナン・レジェ、マン・レイ、マルセル・デュシャン、アレクサンダー・カルダーがそれぞれ原案を提供し、音楽もダリウス・ミヨー、ポール ・ボウルズ、デイヴィッド・ダイアモンド、ジョン・ケージという、稀に見るすごいメンバーが参加している。 巖谷氏はそれぞれの短篇の夢のエピソードの作風、作家の背景と逸話を紹介し、「こんなに贅沢な映画は珍しい。やや詰め込みすぎで、無理やりオムニバスにして物語を作っていますが、物語抜きにして一篇一篇を別に見たいほど。この映画によってシュルレアリスムのいろんなことを感じとることができる。シュルレアリスムとして作られたものではなくても、映画がシュルレアリスムだということもわかる。映画とシュルレアリスムの関係はあまりにも密接なので、シュルレアリスムを通っていない映画はあまり面白くないほど。それを説明するのにはたぶん1時間半ぐらいかかってしまうのでこれで終わりますが、『金で買える夢』はわけのわからないところがあっても、一篇一篇の夢のエピソードがほんとにおもしろい。やっぱりすごいメンバーが揃うと違うなとも思います」とまとめた。 「シュルレアリスム100年映画祭」は、11月7日まで渋谷・ユーロスペースで開催中。