【初対談 沖尚・比嘉公也 × 興南・島袋洋奨】「ひとつ勝てばいい」と乗り込んだ甲子園… 沖縄高校野球界の歴史を変えた2人の左腕が語り尽くす 【特別企画・前編】
ー島袋洋奨さんが沖縄の高校野球界に指導者として戻ってきた 比嘉:春夏連覇をしたピッチャーが、指導者という立場で戻ってきた。当時を知る野球少年、球児たちからすると「憧れの存在」が戻ってきているので、非常に沖縄にとっては大きいと思います。 ー洋奨さんにとって、公也さんはどんな存在 島袋:監督としてセンバツ優勝された時(2008年)、僕は中学生だった。すごく応援していましたし、沖縄の高校野球のレベルの高さを見ることができて、自分も全国で戦える選手になりたいなと思いました。 ■沖縄高校野球の聖地・奥武山球場 ー今回インタビュー場所に「沖縄セルラースタジアム那覇」(前身は奥武山球場)、沖縄の高校野球にとっての “聖地” とも言われる場所を選んだ。奥武山球場の思い出は 比嘉:やっぱり沖縄の高校野球の決勝といえばここ、という、今も当時と変わらない印象かなと思っています。僕らのときの球場は少し古い感じで、それはそれで味があってよかったけれど、今はもう施設が全て整っているので、野球をやるにはすごくいい環境。 島袋:僕が高校現役のときは、メイン球場が北谷球場(※編注:球場の改修工事のため2006年~2010年の決勝戦は別球場で開催)だったので、正直そこまで、思い入れは少ないんですけど、今回の夏もそうでしたが、すごくたくさんの人が入るなかで、高校球児が試合できるのはすごく良いなと思います。立派な球場、沖縄は多いですけどその中でも一番大きい球場ですので、プロ野球の公式戦も開催されますし、沖縄の球児みんなが目指す場所になるんじゃないかと思います。 ■1999年 沖尚が県民悲願の甲子園初優勝 ー1999年の春を振り返って思い出すことは 比嘉:ひとつ勝てばいいかなぐらいの、そういう感じで乗り込んだ甲子園で、まさか自分たちが優勝するとは夢にも思わなかったです。今でもなんで優勝できたんだろう…不思議な大会だったなと。ただ一戦一戦、戦うごとにチームが勢いに乗っていったし、力が付いていってるなと感じたので、甲子園という球場が自分たちでは出すことができない力を引き出してくれたのかなと思います。 ー沖縄の盛り上がりも凄かった 比嘉:新聞記事の切り抜きのFAXが宿舎に届いて、すごく盛り上がってるというのは宿舎にいても分かっていた。「応援されてるな」という印象を受けていました。 ー当時まだどこも成し遂げていなかった県勢優勝は意識したか 比嘉:小学生の時に、沖縄水産が2年連続で夏の甲子園準優勝、2学年上では浦添商業がベスト4になったので、「沖縄でもやればできる」とは思っていました。 ただ、同級生はどうか分からないけど、僕は「優勝」とか、「絶対甲子園に行く」みたいな、そういう強い思いを持って取り組んでいたわけじゃなかったと思います。優勝した瞬間は「明日も試合があるのかな」という感覚、不思議な感じだった。(スタンドの)ウェーブとか、沖縄に戻ってからの人の多さを見たときに「すごいことをしたんだな」と思ったのは覚えています。 (凱旋して)那覇空港、学校までの沿道でも多くの方が手を振って下さってたので、多くの方が喜んだということは、良かったなと思います。