[三山ひろしさん]NHKのど自慢で「鐘二つ」、上京すると「ばか野郎」の洗礼…運命を変えた出会いとは?
地元では「残念な感じ」
――大きな決断をしましたね。 僕の地元では、25歳くらいだと子どもがいて、立派なお父さん、お母さんになっている人が多いんです。壮大な夢を追い求める独身の僕は、地元では完全に「残念な感じ」でした。日ごろから「あんた、どうするとね」「身を固めて何とかしいや」と言われていたので、何が何でも絶対に歌手になるという思いで故郷を後にしました。 性格的に大風呂敷は広げたくないタイプ。その分、やると決めたら絶対にやるんです。一度、挫折したことがあるだけに、2度あきらめるわけにはいかない。完全に背水の陣でした。 25歳にして初めての一人暮らし、それも東京という大都会ですから、つらいこともあったと思うんですけど、ほとんど覚えていません。言葉も違って、勝手もわからない状態でしたが、とにかくオーディションを受け続けました。 ――東京に来て驚いたことはありますか。 知人の紹介で青果市場に勤め始めたんですけど、市場の人の言葉が荒いのには驚きました。枕ことばみたいに、必ず「ばか野郎」「この野郎」がつくんです。うまくやっても、「やりゃあできるじゃないか、ばか野郎」って言われて、言われ慣れていないものだから、これが東京の洗礼かと思いました。 ――慣れるまでに時間がかかりそうですね。 それが、市場の仕事は2週間くらいでやめてしまったんです。「正社員にしてください」と無理を言って入れてもらったのに、いざ仕事を覚え始めたら、「このままだと市場の人になってしまう」と不安になってしまって。なにしろ、30歳までに演歌歌手になると決めていましたから。 ――意外な辞め方ですね。でも、働かないと生活できないですよね。 次の仕事を探そうとハローワークに行ってからが大変でした。体力勝負の仕事に応募するんですけど、ばか正直に「歌手になりたくて上京しました」と言っちゃう。8月に上京して2週間で、もう次の仕事を探すどこの馬の骨か分からない若者を、いきなり正社員で雇う会社なんてあるわけないですよね。 そこへ知り合いから持ち込まれたのが、演歌歌手の松前ひろ子さんが始めたライブレストランのウェイターの求人でした。次の日には面接を受け、採用してもらいました。この出会いが僕の運命を変えました。弟子にしてもらい、旦那さんで作曲家の中村典正先生の元で3年間修業し、28歳でデビューできたんです。今の三山ひろしがあるのは本当に師匠あってのことです。 ――夢をかなえましたね。 「30歳までにデビュー」はできましたが、いかに自分の味わいがある歌を歌っていくか、デビューした後の方が大事です。歌には自分がどうやって生きてきたかが出ます。自分が感じたこと、思ったことが豊かであればあるほど、人生経験を重ねるほど、歌声も色鮮やかになっていく。表現の幅が広くなる、と言い換えることもできるかもしれません。 例えば、デビュー曲の「人恋酒場」はコンサートの定番で、毎日のように歌っているんですけれども、曲に対する考え方や思いは時々で違います。曲を色鮮やかにするために、多くの経験を積まないといけない。時間は有限だから、一日一日を大切に生きていかなきゃいけないと、この年になってようやく実感しているところです。
みやま・ひろし
1980年生まれ、高知県南国市出身。作曲家の中村典正さんのもとで修業し、2009年に「人恋酒場」でデビュー。デビュー曲は10万枚を売り上げ、日本レコード協会のゴールドディスクに認定される。昭和の流行歌を歌ったアルバム「歌い継ぐ!昭和の流行歌」シリーズがヒット。15年に発売した「お岩木山」は15万枚を売り上げ、同年のNHK紅白歌合戦に初出場した。特技は、着物の着付け、竹とんぼ製作、裁縫、けん玉(四段)。