大河ドラマで独裁体制として描かれる「摂政」の成り立ちは? 藤原氏の摂関政治の始まりはいつ?
■幼帝・清和天皇の後見役を務め、人臣初の摂政の座に就いた藤原良房 藤原氏の始祖といえば、逝去の直前に藤原姓を賜った中臣鎌足(なかとみのかまたり)であることはいうまでもない。その次男・不比等(ふひと)が、藤原姓を継いで太政官として活躍。藤原氏繁栄の礎を築いたことも、よく知られるところである。 その孫が、人臣初の摂政(せっしょう)に任じられた良房(よしふさ)である。これをもって、藤原氏による摂関政治の始まりと見ることができそうだ。 良房とは、左大臣・冬嗣(北家)の次男で、弘仁14年(823)、嵯峨天皇の皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)と結婚。承和元年(834)に参議、やがて中納言に昇進するなど、出世を重ねていた。 嵯峨上皇と皇太后の橘嘉智子(たちばなのかちこ/檀林皇太后)の信任を得ていたことに加え、良房の妹・順子が仁明天皇の中宮となって道康親王(後の文徳天皇)を生んだことも、良房が台頭できるようになった一因であった。当然のことながら、良房が道康親王の皇位継承を待ち望んだことはいうまでもない。 ところがこの良房の動きに、恒貞親王の父・淳和上皇が危惧を抱いた。しかし、上皇は承和7年に崩御。2年後の承和9年に嵯峨上皇まで病により崩御すると、皇太子恒貞親王を取り巻く官人たちまで動揺し始める。親王に仕えていた伴健岑(とものこわみね)とその盟友・橘逸勢(たちばなのはやなり)が、親王に危害が加わることを恐れて東国に移って挙兵することを画策したのである。 この計画を知った平城天皇の皇子・阿保親王が、檀林皇太后・橘嘉智子を通じて中納言・良房に報告。仁明天皇に知らせて事件が表面化した。これが、結果として、最悪の事態を迎えてしまった。伴健岑と橘逸勢が謀反人として逮捕されたばかりか、皇太子・恒貞までもが廃されてしまった。承和の変である。 さらに、大納言・藤原愛発(ちかなり)や中納言・藤原吉野(式家)までもが一味として捕らえられた。この二人は淳和天皇の蔵人頭をつとめ、淳和や恒貞親王に密着した人物だった。愛発は最終的に京外へ追放。空席となった大納言の座に収まったのが、良房であった。 事件後、良房が望む道康親王が皇太子に立てられたばかりか、名族の伴氏や橘氏に打撃を与え、淳和に親しい公卿を政界から葬って、自身の昇進も叶えた。 この事件を契機として、両統迭立の状態が清算され、皇位の継承が兄弟間ではなく、親子間の直系相続へと移り変わった意義は大きい。結果として、文徳天皇は即位すると乳児の第四皇子・惟仁親王を立太子し、天安2年(858)に清和天皇として即位している。 この時の新帝は、わずか9歳。その後見役を担ったのが、母方の祖父・良房であった。前年(857)には太政大臣に任じられている。摂政・関白の基礎は太政大臣であり、その具体的職掌として案出されたと考えられ、清和即位とともに実質的な摂政になったとされる。 ■応天門の変で伴氏を排斥 その数年後の貞観8年(866)、とある騒動が起きた。応天門(おうてんもん)の変である。当時大納言であった伴善男(とものよしおが)、左大臣・源信(みなもとのまこと)を陥れようとした政治事件であった。 事の発端は、朝堂院の正門にあたる応天門が、何者かによって放火されて炎上したことにある。ただし、この時は源信が伴氏を呪って火を点けたとの報告を受けて右大臣・良相が源信を捕えたものの、太政大臣・良房が弁護したことで無罪放免となった。 ところが、それから半年近く過ぎた頃、突如、密告者が現れた。放火の犯人が、実は伴善男と弟・伴中庸(とものなかつね)だったと証言され、事態が再燃してしまったのだ。厳しい取り調べの末、ついに善男が自白。両人ばかりか、親族までもがこぞって流罪に処せられたのである。この事件の処理に当たったのが、一旦引退していたが、呼び戻されたばかりの良房であった。 ちなみに、この事件のさなか、清和天皇から急遽与えられたのが正式な摂政の詔みことのりである。前述のごとく、良房が人臣初の摂政であった。 監修/大津透 文/藤井勝彦 歴史人2024年2月号『藤原道長と紫式部』より
歴史人編集部