たった1杯のコーヒーで長時間居座る客にイライラ…そんな人に向けた哲学者の「意外な答え」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】たった1杯のコーヒーで居座る客にイライラする人なら共感する「ある哲学」 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
本当はこんなに優しい功利主義
席数がそれほど多くないカフェで、たった1杯のコーヒーで長時間ねばってパソコンを打ったりスマホをいじっている人がいる。コーヒーが飲み干されてからもうかれこれ1世紀は経つのか、カップの中はカッピカピである。 あるいは集団で、たった1杯の飲み物しか注文せず、ペチャクチャ喋りながら延々席を独占している連中がいたりする。 正直、そういう客は店にとって迷惑だろう。口には出せないだろうけれど、他の客も入れたいからさっさと帰れよとか、長居するならもっと注文しろよ、などと思っているに違いない。 当然、新たに店に入りたい客にとってもそういう先客は邪魔である。しかし店主も他の客も、当人または当人達に直接注意しづらい。なぜなら「コーヒー1杯とはいえ、自分はれっきとした客だ。私には1杯のコーヒーでこの店を長時間楽しむ権利がある」みたいなことを言い返されることが明白だからだ。 仕方ないので、何度も水を注ぎに来たり、BGMの音量を徐々に上げて居づらくさせるなど、間接的に気づかせようとする。 たしかに、1杯のコーヒーしか注文しない客を冷遇してはいけない。しかし、その客が権利なるものを盾にとって居座ることにより、他の人々の楽しみを妨げたり、店の売り上げに悪影響を与えたりする結果となる場合、それを放置しておいてよいだろうか。それはよくない、と思う人々はけっして少なくないのではないだろうか。 その感情を理屈にするとこうなる。「客はあなただけじゃない。店外で席が空くのを待っている人々もあなた同様楽しみたいのだ。だからあなたの〈くつろぐ権利〉行使を、できるだけ多くの人々もくつろげるように自制してくれないか」。 これこそ、「最大多数の最大幸福」というキャッチフレーズで知られる功利主義の出発点である。