松たか子が体現した“侘び寂び”の美しさ 『スロウトレイン』が照らした新年の幕開け
松たか子が体現した「侘び寂び」の美しさ
しかし、妹弟の心配をよそに葉子は実家での1人暮らしにも淡々と順応していく。都子、潮と囲んでいたダイニングテーブルの椅子は潔く1脚にして、広々と仕事をするのだ。「ただ生きて。小さな時間を過ごしています」という語り口には、凛とした美しさすら感じるほど。 そうか、これが「侘び寂び」か……なんて思ったりした。静かにありのままを受け入れる心、経年による衰えや朽ちた美しさを楽しむ、日本特有の美意識と言われている「侘び寂び」。その言葉の意味はなんとなくは知ってはいたものの、それを「こういうもの」という実感をする機会はなかなかなかった。 むしろ現代では、華やかで賑やかなものばかりがもてはやされ、いつまでも若々しいことが美しさの正義のように語られる。SNSで他人の暮らしぶりや容姿を見ては、比較して羨んだり焦ったり。それこそ、「持っている」ことを強調される「持っていない」ことを痛感して心が寂しいと感じることもある。 しかし、人生とは本来寂しいものなのだ。生まれたからには必ず死が待っている。出会いがあれば別れがあり、始まれば終わりに向かっている。成長や進化は喜ばしい一方で、これまでの形が変わってしまうという物悲しさもある。 成長・成熟の先に劣化・老化がある。それはごく自然な流れ。だからこそ、その当然のなりゆきを愛しく思えることができれば、さまざまなライフイベントが待つ人生を生きる上で、こんなに心強いことはない。多様化した幸せ、さまざまな価値観に晒される今だからこそ、そんな「侘び寂び」の心がお守りのように心を落ち着かせてくれる気がした。
“ドラマ”が人生のレールのズレを調整する保線員に
『スロウトレイン』が作られたきっかけは、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)、『重版出来』(TBS系)などを手掛けてきた土井裕泰監督の「定年前にスペシャルドラマが作りたい」という思いだったという。「卒業制作」とも言える本作を「喜んで」と二つ返事で受け入れたのが、上記の作品を含む4作品ほど土井とタッグを組んできた脚本家・野木亜紀子だった。 物語の中心は、葉子、都子、潮の3姉弟による家族の分岐点だが、それと並行して描かれた葉子と担当作家・二階堂(リリー・フランキー)のやりとりもこの作品のスパイスとしていい味を出している。作家人生の引き際を見据えていた二階堂と、そんな彼の作品を手掛けてきた担当編集の葉子。いっしょに作品を手掛けていくという意味では、どこか土井と野木の関係性にも通じるようにも見えた。 「駄作で人生を畳みたくないんだよ俺は」「大事なのは畳み方。広げたら畳まないといけない」と、新作をなかなか書こうとしない二階堂。「あれは傑作だろ?」と前作を超える自信がなかなかでない。そんな二階堂に葉子は「(前作は)佳作です。素晴らしいけど傑作ではない」と言い放ち、「新たな一歩のために、手馴らしのつもりで掌編を」と発破をかける。 そんな葉子の言葉に二階堂が「簡単に言うなよ……」と答える関係性にもまたフフッとさせられた。大ヒット作品を生み出した彼らの間にも、次の企画をスタートさせる前にもしかしたらこんな会話があったのだろうか、なんて想像が掻き立てられるようだった。 前作を超えようと力むほど足がすくむ。それはあくまで結果であり、できるのは愚直に自分のいいと思うものを粛々と創り続けること。そんなふうにして彼らが映像作品と向き合ってきた結果、今回のオリジナルドラマにたどり着いた……。そんなふうにも見えてくる。 若い才能は次々と生まれ、自分たちの作品はどんどん過去のものになる。それもまた、ひとつの寂しさではあり、嬉しいことでもある。葉子のように現状を維持するように淡々と受け入れていくもよし。都子や潮のように新しい世界を切り開いていくもよし。二階堂のように、最高の卒業を見据えてコツコツと積み重ねていくもよし。 移りゆく時の流れを受け入れつつ、自分なりに人生を楽しんでいくこと。そのためには時折レールが、自分の意図とはズレてしまっていないかをチェックする必要がある。それは世間の「定型」とのズレではなく、自然に時を重ねていく自分自身を愛しく受け止める心の調整だ。そんな保線員のようなドラマをお正月に観ることができたのは、新年の一歩としてとても清々しい気分だ。
佐藤結衣