【日本史の新常識】承久の「乱」と「変」どちらが正しいのか?
鎌倉幕府執権の北条義時に対して、後鳥羽上皇が討伐の兵を挙げて敗れた兵乱を一般的に「承久の乱」という。しかし、「乱」ではなく「変」であるという説も存在する。今回はその根拠とされる「乱」と「変」の違いについて解説する。 従来説:鎌倉幕府打倒を目的とし、後鳥羽上皇が挙兵したため「承久の乱」という 新説:国の頂点である上皇が起こした戦なので、承久の「乱」ではなく「変」とする ■上皇の挙兵であることが「承久の変」説のポイント 鎌倉時代初期の承久3年(1221)、後鳥羽上皇とその近臣たちは鎌倉幕府を討滅せんとして挙兵。結果的に大敗するが、この事件はかつては「承久の乱」(承久兵乱など)と呼ばれてきた。しかし、この事件は「承久の変」とも呼ばれている。そもそも「乱」と「変」はどう違うのか。まず、「乱」と「変」の違いについて見てみよう。 「乱」とは、武力を伴う内乱に用いられる。古代史最大の内乱とも言われる「壬申の乱」、室町時代の「応仁の乱」などがある。また、政治権力に対する武力による反抗、叛逆事件に使用されることもある。平将門や藤原純友が朝廷に反逆した「承平・天慶の乱」。大塩平八郎が江戸幕府に対して挙兵した「大塩平八郎の乱」などが挙げられる。 続いて「変」は、政治上の対立による政変や、政治権力者が謀反・配流などにより不当な立場となった事件に付けられることがある。織田信長が討たれた「本能寺の変」、播磨国の守護大名・赤松満祐(みつすけ)が室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)を誅殺した「嘉吉(かきつ)の変」などだ(その後、戦となったので嘉吉の乱とも呼ばれる)。 総合して考えてみると、乱には「政治権力に対する武力による反抗」「叛逆事件」が含まれていることが分かる。承久の乱は、上皇が起こしたものであり、叛逆事件を包含する「乱」と呼ぶのはいかがなものかという考えもあり「承久の変」という呼称が生まれてきたのだ。ちなみに、乱から変への表記変えは戦前からあった。 監修・文/濱田浩一郎 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部