戦国史上、最も謎が多いとされる戦い…「第四次川中島合戦」勃発の背景がスゴかった
駿河今川・甲斐武田・相模北条の大名家は、3国間で和平協定を締結。東海・中部・関東に広がる巨大政治勢力となる。しかし、18年に及ぶ攻守軍事同盟を阻んだのは、越後上杉の関東侵攻であった。 【写真】「歴史の修正」は本当に悪なのか…? 米国の思想統制から抜け出すには 武田と上杉が覇を競い、戦国史上の激戦と名高い「第四次川中島合戦」とはどのような戦いであったのか。日本の中世史研究を牽引する黒田基樹氏の新刊『駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防』(角川新書)より紹介する。
第四次川中島合戦
北条氏康・氏政父子は、勝沼領経略後も、引き続いて上杉方になっていた勢力の攻略をすすめていた。永禄四年(一五六一)の九月十一日までに、勝沼領から武蔵松山領に進軍し、また武蔵天神山領に軍勢を派遣している。 天神山領の国衆・藤田家には、氏康五男の乙千代丸(のち氏邦、一五四八~九七)が婿養子に入って家督を継承していたが、乙千代はまだ年少のため、同領に入部していなかった。上杉政虎の侵攻をうけて、家中にそれに応じる者が出て(主謀者は前代・藤田泰邦の母・西福御前であったか)、本拠の天神山城を占拠される状態にあった。北条派の家臣が反撃をすすめていたため、それへの支援として軍勢を派遣した。そしてその日までに、天神山城を開城させている。 その後も、氏康・氏政は引き続いて松山領に在陣して、同領の経略を図るが、進展していない。松山領は政虎に攻略されたあとは、岩付太田家が管轄し、政虎が新たな扇谷上杉家当主として取り立てた八条上杉憲勝が城主として在城した。上杉憲勝はまた、下総葛西城も管轄し、松山領・岩付領・葛西領を支配した。扇谷上杉家勢力がにわかに復活した状況になっていた(拙稿「新出の上杉憲勝書状」)。そのため氏康・氏政も、容易にはそれらを攻略できなかったのだろう。しかし他方で、天神山領の反北条方勢力の制圧は、着実にすすめていった。
北信濃への進軍
このようななかで大きな動きがあったのは、北信濃であった。八月二十九日に、政虎は春日山城の留守に関して指示して、北信濃進軍をすすめた。出陣はおそらく翌日・九月一日のことであったろう。そうして九月十日、いわゆる「第四次川中島合戦」がおきる(永禄元年の対陣を数えれば、第五次川中島合戦になる)。政虎の出陣から合戦までは、実はわずか十日でしかなかった。この合戦については、江戸時代前期に作成された武田家を主題にした軍記史料「甲陽軍鑑」によって、二か月におよぶ長期の対陣を経て合戦になったように記されているが、それらは事実ではなかった。政虎の川中島地域着陣からすぐに合戦になったとみなされる(今福匡『上杉謙信』『図説上杉謙信』)。 しかしこの合戦が激戦であったのは間違いなく、武田家では、信玄実弟の武田信繁が討ち死にし、「数千騎」あるいは「八千余」が戦死するという損害を出しているし、上杉家では、当主政虎自らが交戦するという事態がみられていた。政虎自らが交戦するというのは、政虎の旗本軍が攻撃をうけたことを意味している。武田軍は御一門衆が戦死するほどの大損害を出した一方で、政虎の旗本軍にまで攻めかかった、という状況がみられたのだろうと思われる。 ちなみに信玄がこの時、どの時期から川中島地域に進軍したのかはわかっていない。先に信玄は七月中旬に進軍する予定を述べていたが、実際のところは不明である。ただし政虎の進軍をうけて出陣したのでは、合戦には間に合わなかったと考えられるから、すでに信玄は川中島地域に在陣していたのではないだろうか。そこに政虎が進軍してきたと思われる。また武田軍はそれまでに、上蔵城を攻略していたから、政虎の進軍はそれら信濃最北部の奪回をすすめながらのことで、政虎はそれを遂げたうえで、さらに川中島地域まで進軍し、信玄と合戦となったのだろう。政虎としては、武田軍が越後に向けて進軍してくる状況にあったため、何としても川中島地域まで武田家の勢力を押し返しておかなければならず、そのための進軍であった。その意味では、政虎は目的を達したといってよいだろう。