徳川家康の後ろで幕政を動かしたふたりの僧侶「天海」と「崇伝」とは何者だったのか⁉
駿河の家康のもとには、以上紹介したような武士・吏僚(りりょう)だけではなく、僧侶や学者も参集してきた。僧侶としては、金地院崇伝(こうちいんすうでん)・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)が有名である。 ■「明神」か「権現」か家康の神号論争 天台宗の僧侶・天海は、会津に生まれるも、長じてのち、西に向かい、比叡山に学ぶ。その後、武蔵国の喜多院(きたいん)に移る。慶長12年には、比叡山東塔南光坊の住持となる。徳川家康と交わりを持ち、政務にも参与したという。家康の死後には、家康の神号を「明神(みょうじん)」とするべきだという崇伝と争い、勝利する。天海は「権現(ごんげん)」を神号として家康を祀ることを主張し、それが通ったのだ。 天海は家康のみならず、秀忠・家光と3代の将軍を補佐し、寛永20年(1643)、この世を去った。108歳の長寿であったという。ちなみに、天海は明智光秀と同一人物だとの説があるが、これは根拠ない俗説である。 ■幅広く幕政に関与した「黒衣の宰相」・崇伝 崇伝は、足利将軍に仕える一色氏の子として生まれるも、南禅寺で出家。様々な師から教えを受けつつ、慶長10年(1605)、南禅寺の住持となる。相国寺・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の推薦により徳川家康に招かれて、駿府に赴く。 当初、外交文書の書記役として頭角を現した崇伝は、寺院法度や禁中並公家諸法度の起草にも関与。豊 臣家との戦(大坂の陣)の契機の一つにもなったと言われる京都方広寺大仏殿の鐘銘問題にも崇伝が絡んでいるとされてきた。幕政に積極的に参与する崇伝は「黒衣の宰相」と呼ばれた。 監修・文/濱田浩一郎 歴史人2023年5月号『人物相関図でわかる! 徳川家康[家族][家臣][ライバル]人名目録』より
歴史人編集部