キューバ大使館から「表彰」も 日本でラテン音楽広めた「東京キューバンボーイズ」
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
戦後、進駐軍向けのラジオ放送から、ジャズでもタンゴでもハワイアンでもない、いままでに聴いたこともない陽気な音楽が流れてきました。それが中南米発祥の「ラテン音楽」です。 そのリズムにいっぺんに魅せられたのが、東京キューバンボーイズの「マエストロ」ことリーダーの見砂直照さんでした。 1949年(昭和24年)にバンドを結成。2年後、銀座のキャバレー「美松(みまつ)」の専属となり、ビッグバンドにパーカッションが加わるフルバンド編成になって、いよいよ日本のラテン音楽の夜明けが近づいてきます。 昭和27年、黒澤明監督の名作『生きる』が公開されますが、この作品ではすし詰めのダンスホールで男女が踊るシーンが出てきます。流れてくる「マンボ」を演奏したのが、東京キューバンボーイズでした。「マンボブーム」になる2年前、黒澤監督は映画のなかで、マンボという新しい音楽を採用していたのです。 ブームの手応えを感じていたリーダーの見砂さんは、ダンスのための伴奏から「ステージで音楽を見せる」スタイルに変えました。メンバーの衣装を赤いブレザーで統一したのも見砂さんのアイデアです。
東京キューバンボーイズは、有楽町の「日劇」に進出。昭和29年、江利チエミさんと共演した日劇公演は大成功を収めました。こうしてマンボブームが到来! まるでマンボの魔法にかかったように、人々はそのリズムに熱中したのです。 地方からの公演依頼も多く、全盛期は年間の公演数が200日を超えました。大阪公演では、3000人近く入るホールを1ヵ月間、毎日満杯に! レコードも売れに売れ、オリジナルアルバムだけでも150枚を数えました。 しかし1970年代に入ると、歌謡曲、ポップス、フォーク、ロックなど、さまざまな音楽がテレビやラジオから流れました。ビッグバンドブームは衰退……情熱的なラテン音楽の火が、だんだんと消えかけてしまいます。そんなとき、見砂さんは最後の夢をメンバーに伝えました。 「キューバで公演をやろうと思う!」