キューバ大使館から「表彰」も 日本でラテン音楽広めた「東京キューバンボーイズ」
ラテンの本場・キューバで、キューバンボーイズが演奏する……奮い立つような決断でした。しかし困ったことが起きます。総勢37人のギャラを支払うお金がなかったのです。 メンバーの一員でドラム担当の三男・見砂和照さんは、諦めかけていた父親に対し、「キューバに自分のバンドを連れていくのが親父の夢だったんでしょう?」と問いただしました。「うん、そうだ」と頷いたのを見て「もうこれしかない」と、世田谷の自宅を抵当に入れ、2000万円を工面します。 夢の中南米ツアーが実現しますが、渡航先のメキシコで持病の高血圧が悪化。現地の病院に入院したとき、息子をベッドに呼び寄せて「キューバンを継がないか?」と打ち明けます。しかし、和照さんは首を横に振るばかり……。 「そうか、わかった」と、どうにか体調を整え、メキシコ、キューバ、パナマ、ペルーをまわりました。憧れのキューバで9公演を開催し、現地の新聞に大きく取り上げられます。
思い残すことなく帰国した見砂さんは、1979年9月29日に解散を発表。翌年、ラストコンサートツアーで輝かしい活動に幕を閉じました。そして10年後、見砂直照さんは80歳で亡くなります。 解散後も「またやって欲しい」という声が数多く寄せられてきましたが、「あくまでもオヤジ1代限り」と和照さんは断ってきました。ところが、キューバ大使館から思わぬ知らせが届きます。 「地球の裏側の日本でキューバ音楽を広めた、東京キューバンボーイズの功績を讃えて表彰したい。そして音楽祭で演奏して欲しい」 「もうバンドは解散してしまったのに、どうしよう……」と、かつてのメンバーに相談したところ、「これほど名誉なことはない」と再結成を勧められます。解散から四半世紀を経た2005年、「見砂和照と東京キューバンボーイズ」として復活させました。 戦後日本に広まり、人々を熱狂させたラテン音楽が再び注目されています。「生活が苦しくても音楽だけは陽気に元気に!」……それがラテン音楽の根源です。いまの日本にこそ、ラテン音楽が必要なのかも知れません。