【被団協にノーベル平和賞】もう一つの原爆投下候補地・京都でも、被爆者は悲劇を伝え続けてきた
広島、長崎の被爆者やその子孫は、原爆との関係が深い京都でも被害の伝承をけん引してきた。 京都は1945年、米軍の原爆投下の有力候補地となり、京都市下京区の梅小路機関庫(現京都鉄道博物館)が目標になっていた。一方、京都帝国大(現京都大)では旧海軍の依頼で原爆開発が進められていた。 そんな京都で「京都府原爆被災者の会」(南区、通称・京友会)が設立されたのは56年。同会は79年に被爆者68人が寄稿した「原爆被爆体験記」を出版し、92年に広島と長崎以外で初めて原爆慰霊碑を霊山観音(東山区)に建立した。現在まで京都市内で原爆写真パネル展を毎年催し、薄れていく戦争の悲惨さや被爆者の悲劇を伝え続けている。 「黒い雨」の実態や内部被ばくの可能性を国に認めさせた「原爆症訴訟」の原告も京都にいた。2003年に76歳で亡くなった小西建男さん(伏見区)は、1986年に自身への原爆症認定却下処分取り消しを求めて京都地裁に提訴し、認定を勝ち取った。内部疾患を理由とする訴訟は全国初で、多くの未認定被爆者に救済の道を開いた。 被爆者が高齢化する中、2012年には、京都「被爆二世・三世の会」(中京区)が立ち上がった。被爆者約100人の体験を聞き取り、20~21年に上下巻の証言集「語り継ぐヒロシマ・ナガサキ」を発刊した。 23年3月末現在、被爆者健康手帳を所持するのは京都府に698人、滋賀県に226人いる。