創業半世紀サンミュージック社長語る 次の時代の芸能プロダクションとは
桜田淳子は飛躍の礎 スタ誕が芸能界で果たした役割
70年代になると“アイドルのサンミュージック”と呼ばれるようになる出会いがあった。 「芸能界の仕組みが定まったきっかけの一つは、日本テレビの『スター誕生!』(スタ誕)ですよ。優勝した子たちを、会場で多くのプロダクションが手を挙げて採る。その子たちを日本テレビが全面的にバックアップし、さまざまな番組に出す。小さいプロダクションも、優れた子たちを採ることで大きくなりました」 その「スタ誕」で実に25社も手を挙げるなか、サンミュージックが射止めた桜田淳子が、同社の大きな飛躍の礎になったという。 「すごい人気でした。実は彼女は森田君の大ファンで、それがウチを選んだ決定打になったんです。で、76年にデビューした太川陽介は桜田淳子の大ファンだったという。繋がりって面白いですよね」
高校卒業待ちきれず上京した松田聖子
そして80年代に入ると、松田聖子が登場。スターの歴史は途切れない。 「ミス・セブンティーンコンテストの九州大会で、CBSソニーのプロデューサーだった若松宗雄さんが見出したんです。ただその年はすでにデビューが決まっているタレントがいたので、翌年高校を卒業したら東京に出てくるようにとの話になりました。しかしご家族が反対されているということがわかりました。そこでウチの福田が福岡の家にうかがったんです。その時本人はお茶を運んできて、そのまま正座して話を聞いていたそうで、許しが出るまで絶対にここを動かないぞという強い意志を感じたようです」 その後、聖子は高校3年の夏休み、卒業を待ちきれず東京に出てきてしまった。 「その行動力が、彼女自身の運を開いたんです。その年の秋にドラマデビュー、翌年の春に資生堂のCMソングを歌わせていただくことになった最中、山口百恵さん引退の話が出て、次のミス・ソニーを誰かに絞らなければと。そこで彼女に白羽の矢が立った。もし高校卒業まで向こうにいたら、間に合わずタイミングを逃していたでしょう」 抜群の声質と、明るく人を惹きつける魅力を持つ聖子は、飛ぶ鳥を落とす勢いでスターに。ファンクラブも人手が足りず、スタッフを倍以上に増員したそうだ。