どう食べ、どう生きるかは「個人の自由」だ…仕事と育児に挟まれた文筆家が取り戻した「自分の本音」
生き方を最適化する
仕事を終えて電車に乗り、最寄駅の改札をピッと抜ける。 句読点的な機械音が一日の流れを区切る。夕方5時半過ぎ、帰宅途中の制服姿のティーンに紛れて駅を出る。 今日は思ったより早く取材が終わったから、夕ごはんの準備を焦らなくてもいい。だから気分もいい。そういえば、今日は娘が塾の日だ、早めに夕ごはんを食べさせて塾に送り出してあげないと。久しぶりにわが家の定番蒸し鶏ごはんにしよう。食べたい味をイメージすると、これから取りかかる夕ごはん作りのゴールが見えて心がふっと軽くなる。 駅前に停めていた電動アシスト自転車の電源を入れて、ゆっくり漕ぎ出す。目指すはいつものスーパーマーケット。夏の匂いが微かに漂いはじめるこの時季は、陽の光のあたたかさが溶け込んだ風が心地いい。小さな公園のそばを通ると、幼い子どもたちのはしゃぐ声が弾んでいる。 そのうちにあちこちの家から、夕餉の匂いがしてくるだろう。カレーやシチューになる可能性を秘めた、玉ねぎやじゃが芋を炒める匂い、揚げものや炒めものを連想させる、ごま油の香ばしい匂い、しょう油と砂糖でなにかを煮ている、甘辛い匂い。どれもがそれぞれの暮らしを淡々と支える、生きるための料理の匂いだ。あと少ししたら、きっとそれらを楽しみに、公園の子どもたちも家に帰るのだろう。 目当てのスーパーマーケットに入るとカゴを取り、素早く売り場をまわりつつ、必要なものを手に入れる。鶏もも肉に大葉と長ねぎ。しょうがとレモンは家にあるから大丈夫。お、鶏のレバーとハツに値下げシールが貼ってある。ついでに砂肝も買って、つまみは鶏もつのさっぱり塩煮で決まり。こうやって買い物をしながら、ワークモードからライフモードに頭を切り替える。 ここ数年は、家に帰ったら滅多なことがない限り、夜は仕事をしないと決めている。以前のように夜遅く突然原稿の修正を頼まれても、もう慌ててパソコンは開かない。まずは先方に、翌朝に対応すると伝えることにしている。ようやくそう言える勇気を持てるようになったのだ。社会の空気も、10年前とは変わってきたと感じる。 もう長いこと、自分の時間を暮らしより仕事優先に使い、自分自身を追い込むような仕事の仕方をしてきた。そうしないと、フリーランスの自分はキャリアが途絶えると思っていたのだ。 娘が保育園児の頃は夜は一緒に寝落ちしてしまうので、朝の4時に起きて原稿を書いていた。きついけど、なんとかやれる。そう過信していた。でも無理だった。人間は動物だから、心にも身体にも許容に限界がある。毎日自分の心や身体の本音を無視していると、もう傲慢なあんたにはつき合い切れないと、ある日心や身体がボイコットをはじめる。突然歯が痛くなったり、耳が聞こえなくなったり。そして自分の意思とは関係なく、いつか本当に倒れてしまう。ある朝起きると、まっすぐ歩けなくなっていた。その日は娘の保育園の芋掘り遠足だったので、必死に弁当を作って詰め、近くに住む両親に電話をして保育園まで娘を送ってもらい、精魂尽き果てた私はベッドに直行した。なにも食べていないのに、吐き気が止まらなかった。それから3日間、世界がぐるぐるとまわりっぱなしだった。心と身体の限界を、自分の身体が教えてくれたのだ。だからもう、無理をしないと決めた。 なにを一番大切にして生きていくべきか。倒れてあらためて考えた。簡単だ。まずは自分自身を、そして大切な誰かをだ。 これまでの私のワークとライフのバランスってやつは相当歪んでいた。だから思い切って変えることにした。状況に合わせて、生き方を最適化するのだ。幼児を育てるという仕事を担っている間は、かつてのようにフルスロットルで仕事をしたら倒れる。どうするか。 娘が保育園に通う間は、自分の仕事の出力を30%に下げることにした。その代わり育児は100%だ。ひとりでは決して生きていけない幼い人間を育てる役割の方が、いまははるかに重要な仕事だ。私の人生はまだまだ続く。だから2つの仕事を持っている間は、生き方を常に最適化すればいい。倒れてはじめてそんな大事なことに気がついた。 【イベントのご案内】 更年期という大海原を愉快に乗り切りたい。『ホルモン大航海時代』刊行記念・馬田草織×田辺真由美トーク&調理解説ショー 開催決定 【日程】7月14日(日)14:00~15:30 【場所】ジュンク堂書店池袋本店 9Fイベントスペース(※オンライン視聴・アーカイブ配信あり) 【登壇者】著者・馬田草織、編集・田辺真由美 【イベント内容】50代シングルマザーコンビの「ごはんこそ我儘がいい」「レシピ通りになんて生きなくていい」といった毎日を機嫌よく送るために心がけている諸々をお話しします。イベント限定公開の調理映像とともに、書籍掲載メニューのコツやエピソードをお伝えする予定です。 お申込みはこちら
馬田 草織