中国の銃殺刑の現場に立ち会って死刑制度の是非を考えた…人間は誰しも死刑存置論者、死刑廃止論者両方になりうる存在である
基本的に死刑廃止論者である理由
しかし、皮肉にも「権力者である裁判官になる」という夢は、卒業前の死刑に関わった体験で破られた。というのは、中国では当時も今も、死刑執行をその場で指揮するのは、当該死刑判決を言い渡した裁判官本人なのである。 筆者は、実習のときの体験から、自分がそれを好きでないことが分かったし、実習が終わった後、毎晩死刑執行の場面が目の前に浮かんで来る悪夢を約1ヶ月間ずっと見て、夜中に変な叫び声を上げ続けていた。 それで、自分は人に死刑を言い渡し、実際にその執行を指揮することができるほど「偉い男」ではないことを悟ったのである。 裁判官志望を諦めて最終的に法学研究者に転向した筆者の権力に関するこれまで辿った心理的過程は、「権力の崇拝者→権力の懐疑者→権力の理解者」というようなものであった。大学での体験を経て、死刑は廃止すべきであると思うようになったのである。 しかし、それ以来筆者はその姿勢を貫き、死刑が必要であると思ったことはどんなときでも、どんな場合でも一度もなかったかと言うと、明らかにうそになる。 今でも時々、「死刑はあっても仕方がない」「死刑はやむを得ない」と思うことがある。特に、何の落ち度もない子供が殺されて孤独で悲惨な人生に追い込まれた親の苦しい表情や、犯人によって親を殺されて孤児になった幼い子供の可哀そうな顔を見たとき、また、人を殺したのに他人事のように振る舞う犯罪者を目の当たりにしたときには、「死刑は例外的にあってもよい」「この事件だけは死刑が適用されてもよい」と思うこともある。 ここに、筆者が、自分は「基本的に死刑廃止論者」と述べるわけがある。
心が揺れる人間
今の日本では、死刑存置論者と死刑廃止論者が激しい論争を繰り広げている。死刑存置論者による死刑廃止論者への反論によく使われている問いの一つに、「もしあなたの家族や親族が犯罪で殺されても、まだ死刑廃止を主張するのか」がある。 筆者が思うに、いくら死刑廃止論者と言っても、よほどの確信的な人間でなければ、身内の誰かが殺されたり、ひどい目に遭ったりしたら、やはり筆者と同じように、「例外的に、またはこの事件だけは犯人を死刑にしてもよい」と思うことがあるはずである。 逆に、いくら死刑存置論者であっても、よほどの確信的な人間でないと、死刑囚に哀願されたり、脳みそと血が飛び出したりするような執行場面を目の当たりにしたら、筆者と同じように心がどこかで動いて、「他の方法はないのか」と思うことがあるはずである。 今の日本では、国民の8割近くが死刑の存置に賛成しているが、これほど高い死刑支持率を保っているのは、日本での死刑執行は行刑密行主義に沿い、極めて密室的なやり方で行われ、ごく少数の関係者以外には誰も死刑執行の場面や状況を見ることも、知ることもできないからであろう。 もし死刑囚に対する絞首の生々しい場面や過程を一般国民が見聞きできるようになったら、日本での死刑支持率はかなり下がるのではないかと筆者は思う。 このように、我々人間は感情や感覚のある動物である。その感情や感覚は場面によって揺れ動くものであり、また変わるほうがむしろ自然である。筆者は「死刑を廃止すべきである」と思っている人間ではあるが、「死刑は存置すべきである」と言う人間に対しても、その気持ちを理解できるように常に思っている。 文/王雲海 写真/shutterstock
---------- 王雲海(おううんかい) 1960年中国河北省生まれ。82年中国西南政法大学卒業。84年に来日し一橋大学で博士号(法学)を取得。1999~2000年、米国ハーバード大学客員研究員。『「権力社会」中国と「文化社会」日本』(集英社新書)で、IPEX2006年度最優秀著作を受賞。著書に『死刑の比較研究-中国、米国、日本』(成文堂)、「刑務作業」の比較研究-中国、米国、日本』(信山社)、『賄賂の刑事規制-中国・米国・日本の比較研究』(日本評論社)ほか。 ----------
王雲海