伏見宮家は江戸時代でさえ皇位「有力候補」でなかった 社会学的皇室ウォッチング!/114 成城大教授・森暢平
◇これでいいのか「旧宮家養子案」―第16弾― 伏見宮系の旧11宮家は、現在の天皇家と室町時代に分かれた遠い血筋にある。その印象を薄めるため、江戸時代に天皇家の皇統が途切れたとき、伏見宮家にある親王も有力な天皇候補だったと男系論者たちは語る。だが、そうした議論は学術的には根拠が薄い俗説である。(一部敬称略) 1779(安永8)年10月29日、後桃園天皇が継嗣をもうけないまま21歳で亡くなったときのことについて著述家、谷田川惣(やたがわおさむ)は、一代前の女性天皇、後桜町上皇と近衛前久(さきひさ)が伏見宮貞敬(さだよし)(当時3歳)を、関白・九条尚実(ひさざね)が閑院宮師仁(もろひと)(当時8歳)を、それぞれ推したと書く。谷田川は「10日間」の議論の末、閑院宮師仁が光格天皇として即位したと続ける(『入門「女性天皇」と「女系天皇」はどう違うのか』)。谷田川が書く「近衛前久」は1612年に亡くなっており、「近衛内前(うちさき)」(前太政大臣)の間違いである。 たしかに、明治元年の『十三朝紀聞』という俗書に、後桜町上皇と内前が貞敬を推し、ひとり尚実が反対したと記載されている。しかし、典拠が不明なうえ、この説は戦前、東京帝大史料編纂掛の歴史学者、和田英松によって実証的に否定されている(「後桃園帝崩御について」、のち『国史国文之研究』所収)。すなわち、後桃園が亡くなる2日前(10月27日)に、彼の女御(正室)、近衛維子(これこ)と後桜町上皇が参内し、次期天皇は師仁とすることを内定したことが分かっている。 尚実は後桜町上皇の正式な裁可を得たのち、崩御の当日(10月29日)、京都所司代を通じて、幕府に伺いを立てた。江戸までの物理的距離から、返事が来るまで11月8日まで待たなければならなかったが、幕府の答えは師仁の即位(践祚(せんそ))容認である。後継をめぐって「10日間」議論したわけではない。跡継ぎは、後桃園天皇と親等が近い閑院宮家から出すことは当初からの構想であって、貞敬が継承候補に挙がったという事実はまったく存在しない。