【吉田秀彦連載#10】篠原信一と井上康生の時代「クソジジイ」と呼ばれながら出場したシドニー五輪で脱臼…
【波瀾万丈 吉田秀彦物語(10)】90キロ級で出場した1999年の世界選手権で初優勝。柔道界も世代が変わり篠原信一(※1)と井上康生(※2)の時代になっていました。自分はベテランだから周りから「クソジジイ」と言われていた(笑い)。 【写真】吉田秀彦の右腕がぐにゃりと… 当時30歳。康生とは9歳差。彼らが上がってきた時は「こいつらの時代なんだ」と思いましたけど、自分は年を食ってても練習するしかない。はっきり言って今の強化合宿の3倍…いや、もっと練習していたと思います。2000年シドニー五輪には90キロ級で出場。前年の世界チャンピオンですから、優勝するつもりではありましたが「これが最後かなあ」とも思っていました。 しかも五輪ではいろいろありました。いきなり「柔道衣のサイズが小さいから替えろ」と言われて。規定の大きさでしたので「これで替えるの?」と。仕方ないので付き人の柔道衣を借りたら臭くてたまらない(笑い)。さらにシドニーの畳に上がったら感触がおかしい。畳に足が着いていない感覚で宙に浮いていました。「まずいな」。完全に調子が悪い状態、地に足が着いていないとはこのことでした。 それで2回戦で息を上げるしかないと思い、長くやって息を上げましたが、それでも次の3回戦では全然ダメ。相手のオノラト(ブラジル)に前年の世界選手権で一本勝ちだったから「いけるな!」とは思っていました。内股がすごくキレるのは知っていたし警戒していましたが、気がついたら、自分がわからない状態になっていた。 内股で投げられ、右手を畳についたのは覚えていますが、そこからはすべてスローモーションの記憶。何がどうだったかわかりませんけど「これが脱臼ってやつなんだ」と思ったのは覚えています。気づいたら腕が変な方向に曲がっていて…。右ヒジの脱臼でした。当時の写真? 見たくないですよ! 気持ち悪くて二度と見られない…。 だから、前年の世界選手権で「運を全部使い果たしたな」と思いました(笑い)。1年違うだけで、こんなに違うのかと。感覚では1年なら体力が落ちると思っていないし「いける」と思っていた。でも体は正直でした。練習をやった分の答えしか出ない。結局は「練習を積めていなかったな」と感じました。 当時は強化合宿に行って康生らが山まで2往復のランニングをしていても、代表コーチだった斉藤(仁)先生から「秀彦はジジイだから1往復でいいよ」と(笑い)。それでも2往復していた軽量級陣に負けていたからねえ。「勝負」に対する気持ちは全く変わっていなかったんですが…前年優勝で、ちょっと調子に乗り過ぎてたのかもしれない(笑い)。 ※1 シドニー五輪100キロ超級銀メダル。 ※2 シドニー五輪100キロ級金メダル。
吉田秀彦