“神田”愛が実った……64年五輪で消えた神田の冠称、千代田区が旧町名復活
現在、東京都内のあちらこちらでは五輪開催を控えて、会場や周辺のインフラ整備を急ピッチで進められています。1964(昭和39)年に開催された東京五輪でも、首都高や羽田空港などが急速に造られました。そうしたインフラ整備のほかにも、五輪によって東京は大きく変えられました。そのひとつが、町名です。
かつて類似地名が多数存在、郵便誤配達も頻発
都中心部の町名は、明治期に江戸時代からの名称をそのまま継承したものが多く残っていました。当時は区画が細分化されているだけではなく、小さな路地を挟んで町名が違っていることも珍しいことではありませんでした。 一方、昔の町名は近接した地域内に類似の町名が多数存在していました。そのため、不案内な人が住所だけを頼りにして知り合いの家を訪問することは難しく、郵便でも配達ミスが頻発するといった不具合もありました。 そうした事情から、政府は観光客が多く訪れると想定された五輪を理由にして町名の整理・統合を図ろうとします。そこで、住居表示に関する法律(住居表示法)を制定しました。 五輪を契機にした町名の整理・統合は、五輪終了後も引き続き推進されました。その結果、都民が慣れ親しんでいた町名は次々と姿を消したのです。山手線の駅名でもあり、若者を代表する街「原宿」も住居表示法によって消えた町名のひとつです。
“神田”思い続けて……2004年には冠称復活の要望書提出
住居表示法によって慣れ親しんだ町名は葬られたままでしたが、このほど千代田区では旧町名が復活を果たしました。 2018年1月、千代田区のJR水道橋駅から近い猿楽町と三崎町に静かながら大きな変化が起きました。三崎町と猿楽町はともに町名を変更し、新たに神田を冠することにしたのです。 千代田区は、1947(昭和22)年に旧神田区と旧麹町区とが合併して誕生しました。合併によって新しく千代田区になったため、旧神田区の町名は神田が冠されることになったのです。しかし、住居表示法によって1967年に神田三崎町は三崎町に、1969年に神田猿楽町は猿楽町へと改められました。旧神田区内では、そのほかにもいくつかの町名から神田が取り外されています。 ところが、町名から神田が消失しても、住民の心の中から“神田”愛が消えることはありませんでした。そうした神田を思い続けてきた住民たちは、2004年に千代田区長・区議会議長に「神田冠称復活に関する要望書」と署名を提出したのです。 要望書と署名を受け取った千代田区でしたが、すぐに町名の変更に向けて動き出しわけではありません。神田冠称の復活には、街区表示板の取り換えや区役所が管理している台帳の更新作業などを伴います。それらにはコストがかかるため、千代田区の動きは鈍かったのです。 それでも「地域住民の多くが、神田を残したいという強い気持ちを抱いていました。そうした思いを受け、2012年に住民意向調査を実施することになったのです」と話すのは、千代田区地域振興部コミュニティ総務課の担当者です。 住民意向調査で判明したことは、神田冠称復活を望む声が根強かったことでした。その結果から、区も34年ぶりとなる住居表示審議会を開催。住居表示審議会では、改めて神田冠称の復活について議論が交わされました。その後も、住民を対象にした意見聴取が続けられます。そうした一連の作業を経て、2014年、区長は「三崎町および猿楽町の町名変更」を表明。区議会もすぐに可決しました。 神田冠称の復活は地元住民にとって待ち望んでいた話ですが、町名が変わることでハレーションが起きることも想定されていました。千代田区には多くの企業が本社や営業所、事務所を構えています。住所が変われば、業務で使っている封筒や名刺は刷り直しをしなければなりません。看板もつくり直す必要が出てきます。 「そうした混乱を少しでも緩和するため、通常は半年程度とされる町名変更までの猶予期間を3年間に設定しました。その間、千代田区では周知の徹底を図りました。移行期間を長めに設けたこともあって、町名変更による混乱はほとんど見られません。また、区が街に設置している街区表示板も、1月中にはすべて取り換えが完了する予定です」(同)。 町名変更に際して、千代田区は総額約1500万円の費用を投じています。しかし、町名変更のタイミングに合わせて、紙の台帳をデータ化することにも取り組みました。そのため、実質的なコストは600万円ほどで済んだそうです。