大正の時代に毎日「カステラ」を…!?美術家・篠田桃紅の「裕福すぎる」幼少期とは
「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。 『これでおしまい』連載第1回
旧満州に生まれる
生家は旧満州・大連にある赤煉瓦造りの3階建て。英国の建築家ジョサイア・コンドルが設計した、元ロシア帝国の家で篠田桃紅は生まれました。日本が日露戦争(明治37~38年)に勝利し、南満州鉄道を含む旧満州における権益を得てしばらくしてからのことです。 父・頼治郎が東洋葉煙草会社の後身である東亜煙草株式会社支社長として赴任し、3男4女のきょうだいの第5子として、異国の地で生まれました。満州に生まれたことから、満洲子と命名されます。 生まれた土地に由来する名前を持つのはきょうだい3人目で、6歳上の次兄は東京に生まれた最初の子だったことから武蔵、3歳上の次姉は大連の前の赴任地、朝鮮総督府が置かれた朝鮮に生まれたことから朝子と名付けられます。 大正2年(1913)年3月28日に篠田桃紅は生まれ、1年半ほど大連に暮らします。まだ乳児だったそのときの思い出は母・丈から聞き継いだものです。 「母はとても懐かしいらしくて、東京に帰ってからもよく大連の話をしてくれました。1階はオフィス、3階には社員のための図書室やビリヤードなどのレクリエーション施設があった。2階が支社長宅で、そこで私は生まれたの。暖房が完備された建物の中で、サモワールでお湯を沸かし、母はペチカで毎日カステラを焼き、ロシア風の西洋的な生活を送っていた。
ハイカラな暮らし
卵がとても美味しくて、毎朝、売りに来ていたそうよ。朝食は和食でした。ただ父はハイカラ好みだったから、コーヒー茶碗や西洋皿も大中小あって、コックさんがうちに来ていたんです。鶏の丸焼きを調理してくれたり、本格的なロシア風料理を母は習った。東京に戻ってからも、カステラや美味しいオムレツをつくってくれて、私たちは嬉しかったですよ。 栗も売りに来ていて、栗の実を買ってストーブの傍に置いておくと、ポーンポーンと音がして、焼けたことを知らせて、それを剥いて食べていたそうよ」 大連での両親の社交は西洋式と日本式が混在していました。クローゼットには、当時のヨーロッパのドレスコードだったフロックコート、ホワイトタイ、シルクハット、山高帽、アフタヌーンドレス、イブニングドレス、オペラグローブ、紋付羽織袴、紋付留袖などが、夏用と冬用それぞれ一式揃っていました。 葉巻は当時の社交のステータスシンボル。東亜煙草株式会社は、日本政府の専売局として中国奥地の農家で煙草の原葉を買い付けていました。買い付けには憲兵も随行し、政府の役人同様の待遇を受けました。 「満州で買った洋食器は日本に持って帰った。あの頃は、ロシアを通じて日本はヨーロッパ製品を輸入していたんです。母はトルストイなどのロシア文学を読むと、大連の昔を思い出すと話していました。雪が深くて寒い場所でしょ。『アンナ・カレーニナ』の書き出しはロシアの雪に埋まったペテルスブルグの駅のホームですものね」 『美術家・篠田桃紅の「意外なルーツ」…作品が持つ独創的な世界観は「伝統的な学問」に培われた』へ続く
篠田 桃紅(美術家)