不信任直後に相次ぎテレビ出演、出直し選への布石と知られざる斎藤知事誕生秘話 混迷・兵庫県知事失職㊤
前回知事選(令和3年7月)からさかのぼること1年前、自民のベテラン県議、内藤兵衛(ひょうえ)(66)と石川憲幸(のりゆき)(69)は地元選出の参院議員、末松信介(68)から斎藤を紹介された。神戸市内のホテルで斎藤と歓談した2人はすぐに好感を持った。
この頃、自民は知事選の候補者選定で迷走していた。日本中が新型コロナウイルス禍に揺れる中、日本維新の会共同代表で大阪府知事の吉村洋文(49)ら「物言う知事」たちのリーダーシップがひときわ脚光を浴びていた時期。一方、兵庫県政で5期目の終盤に差し掛かっていた井戸敏三(79)は公用車を最高級車「センチュリー」に切り替えたことが悪い意味で注目を集めていた。
兵庫では現職知事が副知事を後継とする「禅譲方式」が約60年間続いていた。井戸の引退が確実視される中、慣例では自民の次期候補は副知事だった金沢和夫(68)になるはずだった。
だが独自候補擁立を模索する維新の動向が、この既定路線に動揺を生じさせた。「センチュリー批判」のただなかにあった井戸の禅譲候補では「維新に勝てない」という危機感があった。
そんな情勢のもと、内藤や石川は県議団の若手に斎藤を引き合わせ、県政に関する勉強会を開いた。いわゆる「ハコもの行政」を否定し「無形の価値。僕はそれでいい」と語る斎藤に、「会うたびに引き込まれた」と内藤は振り返る。県連が金沢支援で固まる中、内藤らは令和3年3月、当時、大阪府財政課長だった斎藤に出馬を要請するに至る。
そんな自民の分裂に乗じたのが、当時の維新代表、松井一郎(60)だった。「自民の一部会派が支援するなら、勝てる」と自民に先んじて党推薦を出した。これに自民の党本部が反応し、最後は国会議員らの主導で斎藤の推薦を決定した。
斎藤は結果的に、「不倶戴天」の敵同士であるはずの自民、維新の両党から推薦を得るという離れ業をやってのけた。「とにかく井戸さんがダメで、若い候補なら勝てた。斎藤の実力というより、時流に見事にはまった」と当時を知る自民の地方議員が指摘する。