裁判の証言“信用性”はどう判断する? 「何が間違いない事実なのか」という観点の重要性
市民が刑事事件の犯人と間違われたとき、「冤罪」が生まれる。あってはならない、究極的な間違いだ。 疑われた人の人生を狂わせる冤罪はなぜ発生してしまうのか。そこに問題意識を持ち、撲滅を見据えて多方面から客観的に分析し、再発防止に役立つよう体系的にまとめた一冊「冤罪 なぜ人は間違えるのか」。 著者の西愛礼弁護士は「人は間違える」ことを受け止めたうえで、努めて冷静に「司法の落とし穴」を解き明かしている。 今回は「判断を誤らせる要因」をテーマに、間違えないための思考法のヒントを解説する。 ※ この記事は西 愛礼氏の書籍『冤罪 なぜ人は間違えるのか』(集英社インターナショナル新書)より一部抜粋・再構成しています。
人の話が本当かどうかの見極め方
普段、私たちが人の話が本当かどうか見極めるとき、その人が噓をつきそうな性格かど うか、その人が信頼できる人物かどうかということを手がかりにすることが多いと思いま す。 しかし、物事を客観的・中立的に判断する裁判においては、そのような主観的な事情はあまり考慮すべきではありません。世間から信頼されている人であっても噓をついたり間違っていることを述べたりすることはあるでしょうし、悪い人だって本当のことを言うかもしれないからです。 ではどのようにして人の話が本当かどうかを見極めるのでしょうか。最も重要なのは、その証言を裏付ける客観的な証拠があるかどうかです。 たとえば、殺人事件において目撃者が「彼が犯人だ」と特定した被告人の指紋が凶器から検出された場合、目撃証言は指紋という客観的な証拠によって裏付けられていることになります。 反対に、目撃者の話が客観的な証拠と矛盾していたり、目撃者の話を前提にすれば本来あるべき客観的な証拠がなかったりした場合、それ自体がこの目撃者の証言の信用性を低減させる事情として考慮されます。 たとえば、目撃者が「犯人が出血していたのをこの目で見ました」と言っているのに、犯行現場に残っていた血痕の血液型が被告人のものと一致しなかったとき、その証言は客観的な証拠と矛盾するとともにあるべき裏付けを欠くため、信用性の低いものになるでしょう。