甲子園であわや完全試合、ヤクルト入団拒否、イップス...新谷博が振り返るプロ入りまでの壮絶日々
新谷博インタビュー(前編) 佐賀商のエースとして出場した1982年の夏の甲子園で、あわや完全試合の快投で一躍注目を集めた新谷博氏。同年、ヤクルトから2位で指名を受けるも拒否し、駒澤大へ進学。4年後のプロ入りを目指したが、突如、悲劇が襲った。結局、プロ入りしたのは日本生命5年目の91年。世代屈指の好投手がプロ入りまでの波瀾万丈を語った。 【写真】西武ライオンズ「bluelegends」オーディション密着取材・フォトギャラリー 【夏の甲子園であわや完全試合の快投】 ── 佐賀県には佐賀学園や龍谷など、強豪校がたくさんありますが、そのなかで県内屈指の伝統校である佐賀商に進まれたのはなぜですか。 新谷 中学の時は強いチームではなく、途中でバスケットボール部に転部したほどでした。高校では強いところでやりたかったので、県内で一番の名門である佐賀商に進みました。 ── 高校3年(1982年)の夏の甲子園では、初戦で木造高(青森)に9回二死までパーフェクト。あとひとりのところで死球を与えて完全試合は逃しましたが、ノーヒット・ノーラン。長い高校野球の歴史でセンバツではふたりの完全試合達成者がいますが、夏はいません。 新谷 よく聞かれるのですが、監督に言われたまま、捕手のサインのまま一生懸命投げていたら、達成できたという感じです。だから、夏の甲子園初の完全試合を逃したとか、死球が惜しかったとか、そういう感情は一切ないです。 ── その年のドラフトでヤクルトからドラフト2位指名されるも拒否。その理由は、教員免許を取得して、将来は高校野球の指導者になりたかったからだと聞いたことがあります。 新谷 同級生の4番・為永聖一の駒大進学が決まっていたのですが、監督が「新谷も一緒にお願いします」ということで、ドラフト前に進学が決まっていたんです。ただドラフトで強行指名されたので、教員志望というのはお断りの理由でした(笑)。
【大学4年の開幕戦で起きた悲劇】 ── 駒澤大では、4年間で40試合に登板して16勝6敗。新谷さんが3年の時は「右の新谷、左の阿波野秀幸(亜細亜大→近鉄)」と呼ばれるほど、戦国・東都大学リーグで屈指の投手でした。 新谷 大学では「ドラフト1位でプロに行くぞ!」と意気揚々でした。そして4年春のリーグ戦で開幕投手に指名。神宮球場のネット裏には多くのスカウトが集結していました。しかし初回、緊張のあまりストレートの四球を3人続けて出してしまい、無死満塁。怖くて投げられなくなって......突如"イップス"になってしまったんです。球がどこにいくかわからない。球速を10キロ落として、130キロくらいでストライクをとるしかないわけです。監督に「おまえ、いい加減にしろ!」と怒鳴られ降板。プロ行きも一瞬にして消え失せました。まだ本物ではなかったんでしょうね。 【覚醒のきっかけはギックリ腰】 ── 大学卒業後は社会人の日本生命に進みました。 新谷 相変わらず、入社から3年はイップスに悩まされていました。そして4年目の5月にギックリ腰で10日間練習を休みました。復帰してすぐ打撃投手を命じられたのですが、その1球目に外角で空振りがとれたんです。「あれ、野球ってこんなに簡単だったの?」と。これまでの悩みが一気に消えて、2球目は145キロ。この瞬間「絶対プロに行ける」と確信しました。 ── その年の秋の日本選手権でMVPに輝きました。 新谷 その頃の私にとっては当たり前ですよ。日本で一番いい投手だと思っていましたから(笑)。でも、3年間は結果が伴っていなかったので、周囲は信用するわけがない。当時、同僚の木村恵二(90年ダイエードラフト1位)を推す監督と、僕を推すコーチが激論をかわしたそうです。結局、僕が準決勝、決勝を含む4試合に投げ、3勝を挙げて優勝しました。社会人4年目に開花しましたが、会社への恩返しでもう1年残ることにしました。 ── ケガの功名じゃないですけど、ギックリ腰になったことが転機だったと。 新谷 ホントです(笑)。野球人生の言わばターニングポイントになりました。自信とは不思議なものですね。