「有事の研究」で役に立った"ボッチャのスキル"。アカデミアとプレプリントとSNS(中編)連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第30話 新型コロナのパンデミックでは、いま現在流行している変異株の特徴を迅速に公表することが求められる。「有事の研究」で必要となる"ボッチャのスキル"とは? 前編はこちらから * * * ■カーリングとボッチャ デルタ株が出現したのが2021年の初夏で、次のオミクロンBA.1株が出現したのが同年の11月末。もしデルタ株の出現と同時にデルタ株の研究プロジェクトを開始し、データを論文としてまとめるのに1年かかっていたら? デルタ株の出現から1年後、2022年の初夏に世界で流行していたのはオミクロンBA.5株であって、デルタ株はもう世界から消えてなくなってしまっている。そんなときに「デルタ株の特徴を解明しました!」という論文を出しても、科学的な価値はあっても、社会的にはもはや過去の話となってしまっていて、ニュースバリューはなくなっている。 仮にもし、ものすごいスピードで研究をして、3ヵ月で研究成果を論文にまとめることができて、それを学術誌に投稿していたら? しかしそれでも、前編で紹介した通り、通常の論文の「査読」にはとても時間がかかる。 仮に「査読」と「リバイス(改訂)」が、一般的にはとても早い3ヵ月というスパンで完了したとしても、プロジェクトの開始から論文投稿まで3ヵ月、「査読」と「リバイス」の完了まで3ヵ月で、計6ヵ月かかってしまう。 その頃には次のオミクロンBA.1株が出現してしまっていて、デルタ株についての社会的なニュースバリューはやはりなくなってしまっている。 これは私が好んで使う喩えなのだが、「平時」の(つまり通常の)基礎研究と、「(感染症)有事」の基礎研究は、そもそも違うスポーツくらいにスタイルやルールが違うように感じている。 平時の研究とは、科学的な真実・真理の探究を目的としたものである。真実はいつもひとつなので、平時の研究はつまり、「その『真実という的』にいかに近づけるか?」という知的スポーツと言い換えることができる。 これはスポーツに喩えると、カーリングのイメージに近い。つまり、「ハウス」という的(つまり「科学的な真実」)にめがけて、「ストーン(つまり『科学的なデータ』)」をいかにしてたくさん近くに置くことができるか? というのが、平時の科学のルールである。