謎の決闘で世を去った「早熟な天才」…ガロアが成し遂げた「数の世界を覆した」衝撃的な快挙
ナポレオン・ボナパルトがノートルダム大聖堂で自ら戴冠して皇位に着いたのが1804年のこと。しかし、1812年のロシア遠征に始まるナポレオンの没落は、結果的に王政の復古をもたらしました。しかし、それも束の間、1830年の7月革命による立憲君主制を経て、やがて共和制を求める動きが民衆のあいだから生まれてきます。19世紀前半のフランスは、じつに「激動の時代」そのものでした。 そのような激動のフランスに生まれ、激動のなかに散った革命的な数学の天才が、エヴァリスト・ガロア(1811~1832)です。弱冠17歳、数学に出会って3年の若者が提出した論文が、「革命」と呼ばれ、時代を超えて、いまなお、大きな影響をおよぼしています。 いったい彼は、何をして、何をのこしたのでしょうか? 早熟の天才といわれる彼の思考を、平易に解き明かす『はじめてのガロア』に見てみましょう。 ※この記事は、『はじめてのガロア 数学が苦手でもわかる天才の発想』の内容を再構成・再編集してお届けします。
音楽、チェス、数学
この3つは、昔から年若き天才が活躍しうる分野だといわれてきた。これらは、みずみずしく柔軟な頭脳と若々しい情熱が、長年の修業によって培ってきた年輪に打ち勝つことができるジャンルなのだ。 数学の分野で、このような年少の天才をひとり挙げるとすれば、誰もがガロアを選ぶだろう。ガロアは1832年5月30日、いまとなっては真相を明らかにするのは不可能と思われる謎の決闘で、腹部に銃傷を負って倒れているところを通りかかった農夫によって発見され、病院に運び込まれたが、翌31日、この世を去った。まだ20歳の若さだった。 ガロアがフランス・アカデミーに提出した『第一論文』と呼ばれている論文『累乗根(るいじょうこん)で方程式が解けることの条件について』と、決闘の前日にしたためた「数学的遺書」は、そのまま歴史の闇に消滅してしまう危機におちいったが、ガロアの無二の親友シュヴァリエの必死の努力のおかげで、散逸だけは免れた。 しかし、ガロアの業績が認められるまでには、それから約半世紀の時間の経過が必要となる。